2016年05月
2016年05月31日
下山ダッシュ
3日後に迫った、実家での法事に出かけるねえちゃ。郷里へ帰るときはこのところ高速バスで近くまで行って、親戚に車で迎えに来てもらうパターンが多かったのですが、今回は久しぶりに飯田線に乗るつもりでいます。
飯田線は、愛知県の豊橋と長野県の辰野を結ぶJR東海の鉄道路線。開業は1897(明治30)年で、総延長195.7キロの路線に94の駅があります。
新幹線の拡大など急ピッチで高速化が進む時代にありながら、一時間に1本以下、天竜川の険しい渓谷を縫うように、いまも豊橋から辰野まで約6時間かけてノンビリと走っています。
飯田線のちょっとした名物に“下山(しもやま)ダッシュ”なるものがあるそうです。
飯田駅をはさんで伊那上郷駅から下山村駅までに五つの駅ありますが、その間、線路はゆっくりとオメガカーブを描いています。
そのため列車に乗ると13分〜20分かかりますが、伊那上郷と下山村の実際の直線距離は2km程度に過ぎません。なので、この間を全力で走る(下山ダッシュをする)と、列車よりも早く着くことができるのです。
伊那上郷が最寄り駅の飯田高校では、乗り遅れそうなときや列車代の節約のために、むかしから下山村駅で乗り降りして“下山ダッシュ”で登校していた生徒がいるとか。
ねえちゃが通っていたのは別の高校だったので“下山ダッシュ”をした経験はないようですが、「そんなふうに走って通ってるって聞いたことある」そうです。
2016年05月30日
新「長野駅」
北陸新幹線の開業、それから善光寺の御開帳にあわせて、昨年の3月、長野駅がリニューアルオープンしました。
もう1年以上になりますが、街へ出ることがほとんどなくなったねえちゃは、いまだ新しい駅ビルを見ていません。
ただ、以前の駅ビルにあった大好きなおやき屋さんが、建て替えのときに「どこかへ行ってしまった」のが気になってしかたがないようです。
「新しいビルになって、あのおやき屋さん、駅のどっかでやっているんだろうか?」
私にとっての長野駅というと、いまでも善光寺を連想させる「仏閣型」の駅舎が頭の中にあります。
1936年の善光寺御開帳に合わせて建てられたもので、撞木造りと唐破風を取り入れたデザインが全国に知られていました。
お寺の中にいるような趣のある駅のホームで、立そばをフーフーいいながら食べるのが楽しみでした。
長野冬季オリンピック開催に合わせて新幹線の開通することが決まり、1996(平成8)年、思いで深い仏閣型駅舎は取り壊され、近代的なデザインの橋上駅舎に改築されました。
昨年の更なるリニューアルで、お寺っぽさとは正反対の、いっそうスッキリした美しいデザインの都会的な駅ビルに生まれ変わりました。
けれど「仏閣型」ファンの私には、首都圏のどこにでもあるステレオタイプの駅舎のようで、何となく物足りないものを感じるのです。
2016年05月29日
松代地震
熊本地震のニュースが流れるたびに、ねえちゃは「ほんとうに、気の毒に……」と、心配そうに繰り返します。
最大震度7を観測してから、1カ月半になるというのにいまだに余震がつづいています。
ねえちゃは、これまでに熊本地震のような大地震を直に遭遇した経験はありません。しかし、いま住んでいる地域では、半世紀前、世界的にも稀有な長期間にわたる群発地震が起こったところとして有名です。
1965年(昭和40年)8月3日から、約5年半もの間続いた松代群発地震です。震源地は皆神山付近で、総地震数は71万1341回。うち有感地震は6万2826回を数えました。
震源の深さはごく浅く、群発地震での総エネルギーはM6.4に相当するとされます。
道路の地割れや住宅の損壊、液状化、湧水などが起こり、総被害は負傷者15、家屋全壊10戸、半壊4戸、地滑り64件。
ひっきりなしに発生する地震によって、ノイローゼを訴える住民も少なくなかったそうです。地震の前後で最大約1m隆起し、付近には松代地震断層が見つかっています。
群発した理由としては、地下深部の高圧な地下水が、割れ目に沿って上昇・拡散する過程で岩石の破壊強度を低下させて地震を引き起こすという水噴火説が、有力だとか。
5年半にもわたるこの群発地震は、中央隆起帯西縁に沿って発生してから、南西-北東方向に震源を拡大させながら活動は低下していったそうです。
なんとなくですが、今度の熊本地震とどこか似たところがあるような気もします。
2016年05月28日
天竜峡
ねえちゃの実家の法事も1週間後に迫ってきました。ねえちゃはそのため、近所の奥さんに車に乗せてもらって、美容院へ行きました。
今度の旅行では、高速バスとJR飯田線を乗り継いで、天竜峡まで行く予定です。「天竜峡の駅に下りるのは、高校生のころ以来」と、ねえちゃは楽しみにしています。
天竜峡は、暴れ川と言われる天竜川が切り開いた絶壁つづきの渓谷。花崗岩の岸壁にはアカマツやモミジが自生し、ちょうど今ごろは新緑が見事なはずです。
こうした景観を、船上から楽しむ舟下りでも知られています。
天竜峡温泉港から唐笠港まで大岸壁や奇岩など渓谷美を眺望できる天竜ライン。それから、天竜峡の上流の弁天港から時又港までの天竜舟下りです。
伊那節にも、「天竜下れば しぶきに濡れる 持たせやりたや 持たせやりたや 桧笠」と歌われています。
1989年には、天竜峡温泉も湧き出しました。久しぶりの天竜峡、ねえちゃの目にはどんなふうに映るでしょうか。
2016年05月27日
バスタ
東京から青木島のねえちゃの家に行くとき私は、もっぱら高速バスを使うようになりました。
新幹線で行くと、長野駅に着いてからバスかタクシーに乗り換えて、かなり時間や手間がかかります。
けれど高速バスなら、長野インターからまもなくの「しもひがの」という停留所で降りれば、歩いて10分ほどでねえちゃの家です。
この4月、新宿南口に「バスタ」が開業しました。それまで長野方面行きは、新宿西口なった古いターミナルから出ていましたが、立派な「バスタ」ビルの3階から出発するようになりました。
これまで新宿駅周辺19か所に分散していたバス停留所を、1カ所に集めたというバスタ。
バスタの中はいつも乗客でごった返している感はありますが、JRの南口に直結しているので、場所は格段に分かりやすく、交通の便も良くなりました。
高速バスだと長野まで3時間半ほど。新幹線の2倍くらいかかりますが、料金は半分以下と手ごろです。
バスにはカーテンで仕切られた個室的な席もあり、Wifyiも使えて、なかなか快適です。
それに、日本三大奇景の一つとされる妙義山が見渡せる横川サービスエリアで一服できるのも楽しみです。
2016年05月26日
作新大学園
学制が公布・施行された翌年の1873(明治6)年、ねえちゃがいま住んでいる青木島など当時の5つの村が協力して「作新学校」という学校ができました。
最初は地元のお寺を仮校舎にしていたそうですが、明治16年には、白壁瓦葺き2階建ての本館も建てられます。洋風の窓と和風の玄関を併せ持つ、ユニークでモダンな、当時の最新建築物だったそうです。
その後、この建物は、1956(昭和31)年に民間工場に譲渡されますが、後身である下氷鉋小学校の100周年記念事業の一つとして、昭和49年に同小学校の敷地内に作新記念館として移転されました。
現在は、現在は資料室、大気観測室として使われ、長野市の文化財にも指定されているそうです。
そんな作新学校の名前を引き継いで「地域の中で明るく健康に生活したい人が集い、人と交わって学び、体験し、人生の畑を耕す」ことを目的にした、「作新大学園」という高齢者大学がいまも活発に活動を続けています。
地元の盆栽クラブ、老人クラブ連合会、公民館の合議によって昭和48年9月に設立。4年制で、健康体操、防災、歴史、芸術、文学などいろんな講座があるようです。
「何もやることがない」のが悩みのねえちゃにも、「入学してみませんか」と公民館の担当者らが勧めてくれるのですが、残念ながら一向にその気にはならないようです。
2016年05月25日
大堀館跡
ねえちゃが散歩に出ると、すれちがった子供たちが、しばしば「こんにちは」と明るくあいさつしてくれます。近くに小学校や中学校があって、それらの通学路になっているからです。
そんな、近くにある更北中学校の敷地には、川中島の戦いで重要な役割を果たした大堀館があったことでも知られています。
校門の脇のところに「大堀館跡」の石碑が建っています。大堀館は幅3間半、高さ2間半の土塁が四方を囲み、外側は幅4間、深さ9尺の堀がめぐらされていたといいます。
弘治元(1555)年の第2回川中島の戦いで、武田軍と上杉軍が犀川をはさんで、200日にわたって対陣したとき、信玄はこの大堀館を本陣とした、とされています。
大堀館は、大塚館ともいわれ、信玄、勝頼2代に仕えた町田氏が居を構えていたと考えられています。
町田兵庫正之は、1561(永禄4)年の武田氏による割ケ嶽城攻略の際、城将の山崎七郎を討ち取った軍功をあげたそうです。
正之、さらに子の光直は、信玄、勝頼2代に仕えましたが、武田家が滅亡すると武士をやめて、この地に帰農。館はその後、焼失してしまったとか。
館跡の隣にある安養寺には、信玄が奉納したと伝えられる守護仏不動明王が安置されています。
2016年05月24日
病院と鍵
きょうは3カ月1度の、ねえちゃが街の総合病院へ出かける日でした。1日1錠飲んでいる血圧の薬をもらいに行くのです。
病院の予約は午前10時20分。病院までは、車ならせいぜい15分あれば着けます。
「予約通りに病院へ行っても、どうせたっぷり待たされるんだから、10時ちょっと前にタクシーに来てもらえばいんじゃない」と言ったのですが、慎重なねえちゃは「午前9時20分に」ということで昨夜、予約していました。
そして、きょう。「予約はしたんだったっけ」と何度も問うた後で、「タクシーは少し待たせても」というズボラな私と違ってすこぶる真面目なねえちゃは、午前10時ごろから玄関前へ出てタクシーをずっと待っていました。
準備万端か、と思えば然にあらず。ややヒヤッとする事態が起こりました。いざ、タクシーが来ると慌ててしまったらしく、鍵を玄関の鍵穴に突っ込んだまま、鍵をかけずに出かけてしまったのです。
予想通り病院でたっぷりと待たされて、ねえちゃが家へ帰ってきたのは午後1時半ころ。幸い、鍵は無くなることなく、ドアにありました。
2016年05月23日
剣山
ねえちゃは朝から、きのういただいた小梅をテーブルの上に広げて、梅漬けの準備をはじめました。
最初は、シソで漬けるつもりでいたのですが、「漬けかた忘れちゃって」と姉のところに電話をしたら「らっきょう酢で漬けたほうがいい」というアドバイスをもらったようで、そっちに方針転換しました。
そして、「剣山、どこへいったけ」と、家の中を探し回って見つけてきました。「剣山」と言っているのは、花を生けるときに使う、針をたくさん束ねた剣山留めのことです。
花が動かないように支える花留めは、昔は穴の開いた金属板を用いた七宝留めが一般的だったようですが、明治時代に入って剣山留めが登場し、広く普及したそうです。
けれど、いまのねえちゃにとっての剣山は、花を生けるためではなく、梅漬けに欠かせない小道具なのです。
洗って、ヘタのところを取った後、梅の実を剣山の上でゴロゴロとまんべんなく転がして、表面に細かくトゲトゲを刺していきます。
すると、「酢が染み込みやすくなって、おいしく漬けあがる」のだそうです。慣れた手つきで、針の山をゴロゴロゴロゴロ。長年の経験から生みだされた、ねえちゃ自慢のワザです。
2016年05月22日
小梅
最近はたいていのものが、年中いつでも食べられるようになってきましたが、こと梅の実に関しては、5~6月のこの時期くらいしか手に入らないように思います。
梅を干す甕に紅の海はあり(山口青邨)
といったように、俳句でも梅漬や梅干は夏の季語とされています。
そんな旬の食である小梅が、きょう、ねえちゃの甥から送られて来ました。
このところ、これといった料理をしなくなったねえちゃですが、梅だけは毎年漬けつづけてきています。
「せっかく送ってもらったのらから」と、今年もさっそく甕の中に移し替えて、赤シソの葉といっしょに漬けて「しそ梅」にする準備にかかりました。
江戸時代にはもう、シソで赤く着色される梅干しが作られれようになっていたとか。
伝統的な方法で作られた梅干は、土蔵などできちんと保管していると、腐らず、100年前に作られたものでも食べられるそうです。
梅には、消化吸収を良くするほか、血糖値の上昇を抑えたり肝機能を高めたりする効果もあるとされています。
最近ちょっぴりボケ気味で、何もすることがないのが悩みのねえちゃにとって梅漬けは、頭の体操にための、ほどよい仕事にもなりそうです。
2016年05月21日
祝!リオ五輪出場
女子バレーボールの世界最終予選。日本は2-3でイタリアに敗れたものの、2セットを奪って、リオデジャネイロ五輪出場が決まりました。
きょうの夜、ねえちゃは、めずらしくテレビにくぎ付けになって、「こっちまで緊張してしまう」と声をあげながら、この試合を観ていました。
中学生のとき、9人制バレーの選手だったというねえちゃ。「背は低かったのに前衛のセンターに抜擢されて、地域の試合では強かったのよ」とのことです。
ねえちゃにとって女子バレーというと、「東洋の魔女」の1964年東京オリンピックや、エースアタッカー白井貴子選手の「ひかり攻撃」などで全試合「失セット0」の圧倒的な優勝を果たした1976年のモントリオールなど、日本の黄金期のことが強く印象にあるようです。
ですから、オリンピックに行けるかどうかで肝を冷やしたり、予選の試合で負けることがあるなどということが、なんとなく不思議なでならないようで、「いろんな強い国が出てきて、時代は変わっているんだ」とテレビを見ながら漏らしていました。
ともかくも、祝!オリンピック出場。これで、リオ五輪のバレーボールのテレビ観戦という、ねえちゃの楽しみもできました。
2016年05月20日
首掛けケース
ねえちゃは私といっしょに歯医者通いをつづけていますが、予約した日になると相変わらず、診察券がない、保険証がない、と右往左往するのが日課になっています。
先週も、歯科医院に出かける直前に、家で診察券や保険証がないとひと騒ぎ。歯科医院に行く途中の道端でまた、愛用のリュックサックに入れたはずの診察券がどこかへいっちゃったと、財布などリュックの中を引っ掻き回すことになりました。
こういうのを何とかしようと、首にかける名札入れのピンク色のケースを買ってきました。病院などに出かけるときには、その日に必要なものを入れて首にかけて行くようにしようと。
きょう、さっそく診察券の入ったそのピンクのケースを首にぶらさげて、いつもの歯科医院へ行きました。少しは、役に立ちそうな感じがしています。
ところで先週、入れ歯が入ったねえちゃですが、歯を留めるワイヤー役の金属などにかなり違和感があったようです。でも、きょう歯医者さんに調節してもらって「スッキリした」そうです。
2016年05月19日
次の目標
ねえちゃの次の目標は、6月4日に実家で行われる義姉の一周忌に出席することです。
あと2週間。いつもだと「こんなにボケてて行けるだろうか」と不安になるころですが、「今度だけはどうしても行かなくては」と、めずらしく随分と前向きです。
というのも、「ひょっとすると、あの家へ行くのもこれが最後になるかもしれない」と思っているからです。
義姉が亡くなったことで、ねえちゃの実家を“棲みか”としている人が居なくなってしまいました。
実家は、交通が不便な山の中にポツンとあります。高齢になり、車の運転もしないねえちゃには「懐かしいけど、とてもじゃないけど、私が戻って暮らすわけにもいかない」のです。
「細々と農業をやって食べていける時代じゃないし、たとえ家が無くなっちゃってもしょうがないよね。これからあの家をどうするのか、ちゃんと聞いてこないと」と言います。
往復の高速バスや旅館の予約も取りました。今度の法事には、自分を育ててくれた実家の元住人として、「行く先を見とどけなければ」という義務感のようなものを、寂しさと同時に感じているようです。
2016年05月18日
旭山城
47年前、ねえちゃの一家が長野市に来て最初に住んだのは、市の西部、西長野地区の借家でした。スーパーやいろんなお店、小・中学校も近くにあって、とても便利で過ごしやすい街でした。
西長野には、すぐそばに、旭山(標高785m)がそびえ立っています。山頂の近くまで、しましば遊びに行ったものです。
川中島合戦のころ、ここには旭山城=写真=があって、上杉・武田両軍で激しい争奪戦が繰り広げられました。
旭山城がいつ築城されたかはよく分かっていないようですが、天文24(1555)年、第2次川中島の戦いで、善光寺別当の栗田寛久が武田信玄と通じて、鉄砲300、弓800、兵3000の支援を受けて旭山城に籠もったとされています。
上杉謙信は、善光寺の東の横山城に陣を構え、付城として裾花川対岸の山上に葛山城を築きました。
数カ月間対陣した後、今川義元の仲介で和議が成立します。和議の条件の一つに旭山城の破壊が盛り込まれたとされています。
第3次川中島の戦いでは、弘治3(1557)年に武田軍が葛山城を襲って落城させると、雪解けを待って謙信も出陣して旭山城を再建、守兵を置きます。
永禄4(1561)年の第4次合戦では、旭山を駆け下りた守兵の援護で、武田軍の追撃を振り切ったと伝えられているそうです。
2016年05月17日
妻女山
永禄4年(1561)年8月、第4次川中島の戦いで上杉謙信が1万3000人の軍を率いて陣営を設けたといわれる「妻女山」(長野市松代町清野)に登ると、ねえちゃの住んでいる青木島を含め、川中島平一帯を見渡すことができます。
山といっても、実際は標高差100メートルほどの高台です。妻女山という名前は、上杉軍将兵が望郷の念を抱いて、遠く離れた郷里に残して来た「妻女を偲んで涙した」と江戸時代中期になってから芝居、浄瑠璃、講談などで広まったとか。
見晴らしが良く、武田方の海津城の動静をうかがうには絶好の場所だったようです。山の西側には、謙信が槍の尻で地面を突いて泉ができたという伝説をもつ「謙信の槍尻之泉(やりじりのいずみ)」もあります。
川中島合戦ではよく知られているように、謙信は山上から海津城に立ちのぼる夥しい炊煙を見て武田方の攻撃を知り、夜陰に紛れて山を下り、雨宮の渡しから千曲川を渡って敵の裏をかいたと伝えられます。
ただし現在「妻女山」とされて展望台などがある場所は、実際は斎場山の尾根上の頂(赤坂山)=写真、wiki=で、謙信配下の殿(しんがり)部隊甘粕近江守景持が陣を敷いたところと考えられています。
地元では、本来の妻女山山頂は、この赤坂山から南西に登った斎場山古墳のあたりとされています。
山の中央の平地は陣場平、その西北隅は謙信が本陣を設けた床几塚(しょうぎづか)、さらにその南西は伏兵千人を潜ませた千人窪(せんにんくぼ)とも呼ばれています。
『甲陽軍鑑』では、上杉軍が陣を設けた場所を「西條山」(さいじょうざん)とされます。
真田氏史書『真武内伝』では、「妻女山を西條山と書すは誤也、山も異也」と指摘していますが、江戸時代の地図も「西條山」との記載が多く、唱歌「川中島」の歌いだしも「西条山は霧ふかし」になっています。
西條山(あるいは西条山)は、赤坂山の南にある別の山で、川中島の戦い当時は海津城将が上杉軍来襲を甲斐に狼煙で急報した烽火台があったところのようです。
2016年05月16日
「天と地と」
林檎咲く川中島に風もなし
私の一句です。ねえちゃが暮らしている青木島の周辺も、リンゴの花が咲きみだれています。
もともと南信(長野県南部)出身のねえちゃが、夫の仕事の都合で長野市に暮らすようになったのは昭和44(1969)年のことです。
信州では、いま「真田丸」で沸いていますが、ねえちゃが長野市で暮らすようになった47年前もNHKの大河ドラマが大きな話題を呼んでいました。
長野市の川中島が舞台となった「天と地と」が、一年間にわたって放送されたからです。大河ドラマ初のカラー放送というおまけ付きでした。
石坂浩二の上杉謙信と高橋幸治の武田信玄が、川中島の戦いの、例の一騎打ちを演じました。貧乏なねえちゃの家のテレビはまだ「白黒」でしたが、地元が舞台ということもあって毎週、家族で観ていました。
ねえちゃがいま住んでいるのは、そんな川中島合戦の中心地、八幡原古戦場まで車で5分くらいのところです。
特に歴史に興味を持っているようには思われないねえちゃですが、歴史に残る古戦場とリンゴの里に暮らしていることを、誇りに思っているようです。
2016年05月15日
青木島
何回つづくかな、と思ってはじめたこのブログですが、いつの間にかもう100回近くになりました。このあたりで、ちょっとだけ装いを変えることにしました。
ねえちゃの住んでいるところは、むかし「青木島村」と呼ばれていました。もともと、犀川の南に開けた肥沃な堆積地を利用した、のどかな農村地帯でした。
樹木がよく茂る微高地で、「アオは青海原のように、あるいは鏡のような平らな水面とも解され、犀川の平坦地の流れから」村の名が付いた、といわれています。
これまでも触れてきたように、いまから500年近く前、甲斐(山梨県)の武田信玄と越後(新潟県)の上杉謙信がぶつかった、有名な川中島の戦いの舞台となったところでもあります。
また、北国街道、善光寺街道、松代街道などが通る青木島は、古くから交通の要衝として栄えてきました。犀川には渡し場が設けられ、船3隻、水主15人、船頭1人が松代藩によって配備されていたそうです。
渡し船は川を横断して綱を張り、船頭はその綱を手繰って客を渡しました。江戸中期には渡し賃が1瀬10文、2瀬30文、3瀬39文と定められ、番屋で船賃を払って往来していたといわれています。
これからは間口を少し広げて、ねえちゃの暮らしぶりだけでなく、川中島合戦など土地に刻まれた歴史や風土にも広く目を向けて書いていきたいと思います。ひきつづきお付きあいいただければ幸いです。
2016年05月14日
フィットネス
ねえちゃは、中肉中背、とくに太ってるわけでも、痩せすぎ、というわけでもありません。
むかし母乳が出なかったそうで、「太れば出るようになる」とう話を聞いて、無理やり食べて、かなり太めだった時期もありました。
でも、けっきょく「太っても母乳は出るようにならなかった」そうで、過食をやめて仕事に追われるようになったら自然に痩せていったようです。
年を取って、ひざの痛みが気になったことがありました。でも、何度かお医者に通ったら、治ってしまいました。
何もやることがないというので気晴らしにもなればと、2~3年前、中高年女性に人気の「カーブス」というフィットネスクラブに通っていたことがあります。
ステップボードを上り下りしたり、筋力トレーニング、ストレッチをしたり、1回30分間、楽しみながらマイペースで運動ができます。
予約がいらず、好きな時間に行けばいいので、買い物のついでに立ち寄ったりしていたのですが、いつの間にか足が遠のいてしまいました。
「痩せたい」とか、「健康になりたい」とか、やはり本人にモチベーションが無いことには、つづかないのでしょう。
2016年05月13日
入れ歯
歯医者さんへ通っているねえちゃですが、きょう、出来上がった部分入れ歯が入りました。「噛んでみても、違和感っていうか、まだまだ何かしっくりこなくって」。
口を覗いてみると、ねえちゃの下の歯に、入れ歯をひっかけるカギのような針金がかかっているのが分かります。
この針金、ワイヤーを曲げて作るクラスプと呼ばれるもののようです。口の中に残っている歯に抱え込むように掛けることで、義歯を安定させる役割をしています。
5年前に亡くなったねえちゃの連れあいは、30歳代で橋から転落する事故に遭って、3分の1近くの歯が入れ歯になってしまいました。
ですから、ねえちゃは、入れ歯を見るのは慣れっこ。入れ歯の手入れなどについても、よく分かっているはずです。
でも、実際に自分でクラスプの付いた義歯を使うのは初めてのこと。「おじいさんのような歯になっちゃったんだね」と、ちょっぴりショックのようです。
2016年05月12日
アイスクリーム
ねえちゃは、お風呂を上がったときなどに、アイスクリームを食べるのが日課になっています。「体がポカポカしたとき」に食べると、最高においしいのだそうです。
以前は、カップに入ったのやモナカタイプのを買っていましたが、最近は食べきれないことが多くなってきたようで、食べかけのが冷凍庫に放置されたままになっていることも多くなりました。
そこで最近は、アイスバーやアイスキャンディ、一口サイズなど、小さいアイスクリームがたくさん入った袋を、生協に注文するようにしています。
週1回、生協から注文した商品が届くと、他のものはどこに置いた分からなくなっていますが、アイスクリームだけはちゃんと冷凍庫の所定のところにきちんとしまっています。
長野も摂氏25度近くなることが多くなり、季節は春から夏へと移りつつあります。
パジャマで一日家で寝ていることの多いねえちゃは、季節は移ってもいまだに「ついつい習慣で床暖房を入れてしまう」暮らしがつづいています。
ですから、お風呂上がりでなくても、いつも「体がポカポカ」。余計にアイスクリームが恋しいようです。
2016年05月11日
ヘビ
テレビを見ていたら、とりわけ有毒だとして「ヤマカガシ」というヘビが紹介されていました。
「ええっ、ほんと。子どものころは毒がないから大丈夫だって教わっていて、平気でく獲っていたんだけど……」と、ねえちゃは驚いたように言います。
ヤマカガシは、たいてい頸部の背面には黄色の帯があり、里山、特に田んぼなど水辺の草むらなどでしばしば見られます。
餌であるヒキガエルの持つ毒を貯蓄して使っているそうで、噛まれると最悪の場合、失明したり、死亡したりすることもあるそうです。
山里のねえちゃの実家では、隣の家へ行くのにも茶畑や草むらを通らざるをえませんでした。マムシ、シマヘビ、アオダイショウなど、子どものころは毎日のようにヘビを見かけていたそうです。
一方で、当時の山人にとってヘビは、貴重なタンパク源でもあったそうです。家のみんなでしばしば「しっぽのほうをつかんで、ウロコが引っかからないようにうまく土の中から掘り出して」は、獲ってきたそうです。
そして、皮をひんむいて焼いて食べるのが、ねえちゃにとっても楽しみだったとか。たしかにコリコリして引き締まったヘビの肉は、最高に美味です。
2016年05月10日
温泉
6月の初め、法事で、ねえちゃは久しぶりに実家へ行くことになりました。「せっかくだから今回は、ついでに温泉にでも浸かって来ようか」と、めずらしくずいぶんと前向きです。
半世紀以上むかし、ねえちゃがいたころの村には「温泉なんて高級なもの、あるわけなかった」そうです。でも、いまでは、立派な温泉宿が何軒か立って、いろんな催しにも利用されています。
5年前に、連れ合いが亡くなる前には、草津、平湯、万座など、ツアーや近所の人たちらといっしょに、夫婦でいろんな温泉を巡ってきました。旅先で、歩行器の夫と仲良く歩く写真も残っています。
でも夫が亡くなってからは、4年前に、お嫁さんの家族らと3泊4日で安曇野の温泉巡りをしたくらいです。最近は、むかしの職場の仲間らから誘いがあっても、断りつづけています。
お風呂が大好きなねえちゃですから、久しぶりに大きな湯船に浸かるだけでも、きっとそれなりの気分転換にはなってくれることでしょう。
2016年05月09日
ゲーム
インターネットを覗いていたら、この春、東京のゲーム開発会社に就職した、ねえちゃの孫が入社した際の写真が載っていました。
この会社の新入社員は、今年は10人。同期の仲間たちと肩を組んで、意欲満々という感じで写っています。
スーツ姿の孫など見たことがなかったねえちゃは、最初は誰だか分からなかったようでしたが、「へえ、かわいいじゃん。立派になって。でも、いちばん痩せてるね。一人暮らしになったっていうから、ちゃんと食べるもの食べてればいいけど」。
就職先は、家庭で楽しめるテレビゲームや個人向けの携帯型ゲームをはじめ、ゲームセンター、遊園地などのアミューズメントスポット用、スマートフォンアプリなど、さまざまな用途のゲームを幅広く作っている会社のようです。
ねえちゃは、テレビゲーム、ゲームセンター、スマホアプリなどと言われても、行ったことも、やったこともないのでチンプンカンプン、何が何だかさっぱりわかっていません。
ただ、ねえちゃのおいが、パチンコ・スロット店を営んでいることもあってか、ゲームというとパチンコが頭に浮かぶようです。といっても、「パチーンと玉をはじいて、穴に入ると……」という、お祭りとかで見かけるようなむかしながらの、ですが。
ねえちゃの孫は、小さいころからずっとゲームのプログラミングに夢中でした。ハタから見ていても、メシよりも何よりも好きで好きでしかたがないという感じでした。興味は失せるどころかいっそう膨らんで、大学でもゲームデザイン関係の勉強に打ち込んできました。
周りからどう思われようと、自分が本当に好きだと思えることに出あい、熱中していられることほど素適な人生はないと思います。「孫を見習って、残りの人生、しゃちほこばらずに根っから好きだなって思えることをやったら」と、ねえちゃにときおり話したりします。
2016年05月08日
ピコカ
ねえちゃの行きつけのスーパー「マツヤ」。外の看板は「マツヤ」のままですが、いつのまにか、店内の飾りつけも、店内放送もガラリと変わっています。
4月からアルピコグループのデリシアに吸収合併されて、会社としてのマツヤがなくなってしまったからなのでしょう。
店員に聞くと、マツヤという店の名はまだ残るみたいですが、何やらややこしい名称の組織の先っちょのほうに位置づけられることになったようです。
それに伴って、ポイントカードも「マツヤカード」から「ピコカ」に変わりました。
ねえちゃも、いつやったのかは、いつものようにすっかり忘れてしまっていましたが、すでに「ピコカ」への変更手続きを済ませていました。
ピコカは、マツヤカードと違って、ポイントだけでなくプリペイド機能を備えています。
あらかじめ現金をチャージしておけば、カード一枚で買い物ができ、キャッシュで買う場合の2倍のポイントが貯まるなどいろんな特典があるようです。
便利には違いないから試してみようと、きょう、ねえちゃとマツヤへ出かけて、1万円チャージして買い物をしてみました。
結果、「これなら財布を持って行かなくても買い物ができるんだ」と、ねえちゃはなかなか乗り気のようです。
レジで、「ピコカで」とカードを差し出しさえずれば、財布からお金を出し入れする煩雑さが省けるうえ、ねえちゃがよくやる「財布どっかへいちゃった」とアタフタと騒ぐ事態も防げそうです。
問題は、ものをカードで買たことの無いねえちゃが、果たして、カードで買い物をすることを習慣にすることができるかどうかにあります。
2016年05月07日
連休の収穫
ゴールデンウィークも終わりです。でも、ねえちゃの生活は年中連休のようなものなので、なにか特別なことがあったというわけではありません。
連休中に、実家の山で穫れた竹の子を、おいがわざわざ車で届けてくれたことも、大宮に住んでいる息子がやって来たことも、ねえちゃの記憶からはほとんど消えてしまっているようです。
ただ、なんとなく覚えているのは、竹の子をお裾分けで近所の人たちに配ったこと。それから、ここ数日、自分で煮た竹の子を毎食、冷蔵庫から取り出して来てはおかずにしていることくらい。
きょうの夕食の一皿で「いただいた竹の子もこれで終わり」となりました。今年の竹の子、ねえちゃには「少し硬かった」ようですが、私には歯ごたえがあってちょうどいい感じ。ただし、「味付け、薄いんじゃない」とねえちゃに文句を言うと、「そう? しょっぱくなるといけないと思って気をつかったんだから」。
最近、料理らしい料理をめったにしないねえちゃですが、やる気になれば、竹の子の煮付けくらいは大丈夫、と判明しました。それが、今年のゴールデンウィークの最大の収穫といえそうです。はるばる届けてもらって感謝、感謝。ごちそうさまでした。
2016年05月06日
ユースキン
お風呂から上がると、ねえちゃは決まって「ユースキン」を塗るのが日課になっています。
「いつだったか薬屋さんにすすめられた」のがきっかけで、家族みんなで使い始めてもう50年くらいになります。
ねえちゃは、いまのように給湯器や全自動の洗濯機など無い時代から、ずっと主婦をやって来ました。ひび、あかぎれ、手荒れ、指先のさかむけなど日常茶飯事のことでした。
「ユースキン」が誕生したのは、1957(昭和32)年のことだそうです。創業者が営む薬店に訪れた一人の主婦が「ベタつかずにもっと効くものがあればいいのに…」と嘆いたのが、開発を思い立つきっかけだったとか。
ベタつかない親水性のクリームにビタミンB2、B6、血行促進成分カンフルを加えた日本初の医薬品ハンドクリームは、創業者によって「あなたの肌」を意味する「ユースキン」と名付けられたといいます。
ねえちゃも、塗りこんでしばらくすると肌になじんでベタつかないこのクリームがすっかり気に入って、多種多様なクリームが出回っている昨今も、「私はユースキン」と頑固に使い続けています。
2016年05月05日
“東洋の魔女”世代
連休中はスポーツを楽しんだ、というかたも多いことでしょう。本を読むことよりは体を動かすことのほうが好きなねえちゃですが、どうもスポーツ好きというわけではなさそうです。
ほんとうのところ運動神経がいいのか悪いのかも、正直、よくわかりません。
ただ、テレビでバレーボール中継をしていると、「そ~れ」「よく決めたね!」などと声をあげながら、珍しく目をくぎ付けにして観ていることがときおりあります。
ねえちゃは、半世紀前、“東洋の魔女”として世界を圧倒していたバレーの選手たちと同じくらいの世代です。東京オリンピックの金メダルは、やはり印象的だったのでしょう。
それに、ねえちゃ自身も中学のころバレーの選手としてがんばっていたそうです。ただし、やっていたのはいま主流になっている6人制ではなくて、9人制でした。
ということもあって、最近の試合をテレビで観戦していても、ルールやポジションがどうなっているのか、何がなんだかわからないことばかりだといいます。
たとえば、リベロ。「あの小さい人、ひとりだけ違うユニフォーム着て、何なんだろう?」と不思議がっています。
2016年05月04日
デパート
小さいころ「こどもの日」とかいうと、家族でデパートへ行くのが楽しみでした。
キラキラした品物がたくさん並んでいて、いちばん上の階には、お子様ランチやハンバーグなど何でも食べられるファミリーレストラン。屋上には、コーヒーカップや観覧車などいろんな遊具のある遊園地がありました。
長野市にはむかし「丸光」と「丸善」という地場資本の大きなデパートが二つあって、連休とかには家族連れであふれかえっていました。でもやがて、ダイエー、イトーヨーカドーなど大型スーパーが入ってきて競合するようになります。
ダイエーの長野店は、ねえちゃが40歳から20年近く勤めた職場となったところです。買い物ついでに家族で、ねえちゃがどんなふうに働いているのか覗きにいったこともありました。
こうした大型スーパーやコンビニなどの台頭で、デパートは次第に元気がなくなってきました。光り輝いていた長野県最大のデパート「丸光」も、1982年には、名前を変えて、そごうとの業務提携に踏み切らざるを得なくなり、やがて倒産します。
「丸善」は東急グループの傘下に入り「東急」として続いていますが、休日などに家族で連れ立って遊具などで楽しむ、という雰囲気はもうありません。
一方で、ねえちゃが働いていたダイエーも、2000年末をもって閉店へと追い込まれました。記憶や思い出が詰まったお店が、寂しいかな、次々に消え去っていきます。
2016年05月03日
川中島
ねえちゃの家のあたり一帯は、いまから500年近く前、「川中島の戦い」が繰り広げられたところです。
あの武田信玄と上杉謙信が一騎打ちをしたとされる八幡原、さらには、いまは長野オリンピックのスタジアムのある運動公園になっている、山本勘助が戦死したとされる地も近くにあります。
ちょっと散策に出かければ、武田軍や上杉軍の武将たちの史跡やお墓、関連するお寺もたくさんあります。
信玄が川中島決戦の拠点として勘助に築城させたといわれ、また「真田丸」でもお馴染みの真田十万石の居城、海津城(松代城)もバスで15分ほどのところにあります。
ゴールデンウィークのさ中、海津城や真田屋敷などは、例年にも増して観光客でにぎわいを見せているようです。
でも、ねえちゃにとって「川中島」といえば、石坂浩二の謙信と高橋幸治の信玄が一騎打ちを演じた、だいぶ前のNHKの大河ドラマ「天と地と」が思い出されるくらい。これといった興味はないようです。
散歩に出かけても史跡など目もくれず、ときおり携帯電話の歩数表示に目をやりながら、迷わないようにと一途に歩いています。
2016年05月02日
マツヤ
ねえちゃの買い物といえば、たいていは、家から歩いて5分ほどのところにあるスーパー「マツヤ」です。ねえちゃの生活は「マツヤ」で成り立っている、といってもいいくらいです。
「マツヤ」は、長野県の東北信地方を中心に26店舗の食品スーパーマーケットチェーンを展開していた会社です。が、最近、吸収合併されて会社としての「マツヤ」はなくなってしまいました。
同社のホームページをのぞいてみると「平素から格別のご愛顧を賜り、誠にありがとうございます。株式会社マツヤは2016年4月1日より、株式会社デリシアになりました」とありました。
1914(大正3)年に乾物店として創業してから、100年以上、地域で親しまれてきた会社でしたが、2010年代に入ると経営が悪化。アルピコグループの傘下に入り、4月から同グループ傘下のスーパーを展開する会社に吸収合併されて「デリシア」になった、ということです。
ねえちゃの最寄りのお店の名前はまだ「マツヤ」のまま営業していますが、3年間で30億円以上かけてマツヤ全店の改装・建て替えを進める方針で、店名も順次「デリシア」に統一されていくとか。
ずっと親しんできた「マツヤ」という会社がなくなってしまったことを、ねえちゃはまだ知りません。
でも、ときおり「このごろお客さんが少なくなったように思えるんだよね。つぶれちゃったら困るなあ」というようなことを話していた矢先のことでした。
名前が変わっても、とにかくスーパーとして(できれば、より安いお店として)残ってほしい。ねえちゃも私も、願いは同じです。
2016年05月01日
竹の子とまん十
いろいろとお世話になっているねえちゃのおいが、とりたての竹の子をねえちゃの家へ届けてくれると言っていたので、夕方「竹の子もってきてくれたの?」と電話をしてみると、ねえちゃは「いや、来てないよ」と言います。
「ほんと? 部屋とか、台所とかに置いてないの?」と念を押して、ねえちゃに探してもらうと「ああ、来たんだわ。一二三屋のまん十がテーブルの上に置いてある」。
車でわざわざ遠から届けてくれたのに、ねえちゃはすっかり忘れていたのでした。
よくよく聞くと、いただいた竹の子の一部はもうすでに近所にお裾分けし、自分でも食べようと茹でていた、ということも分かりました。
「一二三屋のまん十」は、ねえちゃも私も大好きな飯田の銘菓です。北海道産小豆のこし餡と沖縄産サトウキビの黒砂糖で作られた、素朴でやさしい味わいがなんともいえません。
彼が来るときは、必ずといっていいほどお土産に持ってきてくれるので、来たことを忘れてしまっても、名物まん十が、その“証し”になってくれるのです。
今年も旬の竹の子、そして忘れられない味わいのまん十。ありがたく、ごちそうになります。