2018年12月

2018年12月31日

節目の年

何となくあわただしいものを感じているのか、昨夜は3回、きょうも朝8時ごろと夜8時半ころの2回、ねえちゃから電話がありました。

きょうの夜は「いままでみんなとテレビを観ながらおしゃべりしていて、戻って来たところ」と、いつものようにいいます。

「きょうはどういう日か分かっている? おおみそか!」というと、「それが、なんだかよく分からないんだけど」。

「1年でいちばん最後の日。こんど電話するときは、もう、あけましておめでとうございますだ。紅白、みんなで観てたの?」

「うん。なんだかわからんけど、歌番組みたいのを観てきた」。

2018年は、ねえちゃにとって大きな節目の年になりました。1月にグループホームへ入るための面接を受けて、3月には「1部屋空きができた」との連絡をもらい、「気が変わらないうちに」と、見学した翌日の3月18日に大急ぎで引っ越しをしました。

共同生活になじめるかなと心配でしたが、幸い、杞憂に終わりました。家に居るときは「こんなんなら生きていてもしょうがない。死にたい」とばっかり言っていたのが、「困ったことは何もない」と落ち着いた声で話すようになりました。

食事や洗濯の手伝い、花壇の水くれ、運動会やカラオケ大会などの行事にも、ものおじせずに参加し、楽しんでいるようです。

親戚や友人、ご近所さんら、いろんなかたたちが、ねえちゃの面会に来てくれました。みなさま、たいへんお世話になりました。そして来年も、どうかよろしくお願いいたします。


harutoshura at 23:08|PermalinkComments(0)ねえちゃの近況 

2018年12月30日

グレイゾーン

数学科出身の私には、一つの概念にはきっちりとした「定義」がないと気が済まないところがあるのですが、お医者さんにねえちゃがアルツハイマー病と診断されても、結局のところどこがどうだからアルツハイマー病なのかイマイチ理解できず、すっきりできずにいます。

グループホームへ入るまでにねえちゃは、総合病院の内科一カ所、二カ所の脳神経外科で診療を受けて来ました。が、たとえば同じようにMRIを撮っても、何をもってアルツハイマー病とするかといった点にも、お医者さんによってかなり開きがあるようにも感じてきました。

実際、特にアルツハイマー病の始まりを識別することは、専門医でもやっかいなことのようです。年齢を重ねるにしたがって起こる認知・記憶力の低下との区別などが難しいため、ごく軽い初期的な症状ではアルツハイマー病とは診断されず、“グレイゾーン”として扱われているといいます。

それでは私たちは、アルツハイマー病をどういうもだと考えておけばいいのでしょう? とりあえず、私の手元にある大学の認知症に関するテキストにある「アルツハイマー病とは?」という項目を見ると、次のように記されています。

「1906年にドイツの精神科医アルツハイマー博士により最初に報告された疾患である。アルツハイマー型認知症は記憶障害が最初に出現し、他の認知機能障害を伴いながら慢性進行性の経過をたどる変性疾患である。

欧米では以前より認知症の原因として最も多い疾患であり、認知症患者の50~60%を占める。日本では以前は血管性認知症が老年期認知症の第1の原因疾患と言われていたが、近年は疫学調査などから、日本においてもADが老年期認知症の第1の原因疾患と考えられるようになっている。

原因は、脳内のアミロイド沈着が神経細胞死の原因であるとみなすアミロイド・カスケード仮説などが提唱されている。性差については、3:2で女性に多い疾患と言われている。家族性にみられるものもあるが、多くは散発性である。

神経病理学的変化としては、老人斑、神経原線維変化の2つの変化が脳に多数出現することが特徴であり、マクロ的には神経細胞が脱落して大脳が委縮する」(放送大学教材『認知症と生きる』)。


2018年12月29日

認知症の中の認知症

これまでに、アロイス・アルツハイマーによるアウグステの診断にはじまって「アルツハイマー病」がどのような変遷をたどってきたかを、ざっと眺めてきました。

それでは、ねえちゃのように、現在、アルツハイマー病とされているのは、どういう病気のことで、どのような症状があり、どう診断され、どんな薬や治療法があるのでしょうか。年末年始を利用して整理しておきたいと思います。

なんらかの病気によって脳の神経細胞が壊れるため、認知機能に持続的な障害を招き、理解する力や判断する力がだんだんなくなり、日常生活や社会生活が営めなくなる「状態」のことを認知症といっています。

アルツハイマーの時代の話をするとき「痴呆」という言葉をたびたび用いました。以前は、認知症ではなく痴呆と言葉が一般に使われていたのです。

しかし、痴呆という言葉には侮蔑的な意味合いが暗に含まれているといった批判が出て、2004年、厚生労働省は行政用語として「認知症」を用いることを決めました。それがきっかけとなって、今日では認知症という言葉が広く使われるようになったのです。

だれでも年齢を重ねるとともに、もの覚えがわるくなったり、人の名前が思い出せなくなったりします。これは脳の老化によるもの忘れが原因と考えられます。認知症は通常、このような老化によるもの忘れとは区別されています。

脳の「老化」ではなく、脳の「障害」によるのです。それから、認知症はあくまで「状態」のことをいい、認知症という一つの「病気」があるわけではありません。

認知症を引き起こす病気はたくさんありますが、代表的なのが「4大認知症」といわれる①アルツハイマー病、②血管性認知症、③レビー小体型認知症、それに④前頭葉側頭葉変性症です。

これらの中でも、アルツハイマー病は全体の半分以上をしめる、認知症の中の認知症、認知症の“代名詞”として用いられることもある疾患なのです。


2018年12月28日

15年

仕事納めのきょう、このあいだ買った来年の日記帳をもって、2週間ぶりに、ねえちゃのグループホームへ行きました。

「マスクと帽子をしててもお前の顔はわかる」と、いつものように足をバタバタさせて喜んでいました。

書き込むのはあと何日かだけになった今年の日記帳をペラペラめくって見ると、忘れずにほとんどぎっしり欄を埋めて、毎日ずっと書きつづけてきたことが分かります。

月初めに、その次の行事や出来事を書く欄も、小まめに記入されています。

日記をつけてから寝る、という習慣は、スタッフの人たちの協力もあって、今年も一貫して続けることができました。

これで、2004年から毎日欠かさずつけるようになった日記は、3年連記が3冊、5年連記1冊、それに今年の1年用日記帳と、15年間つづいたことになります。

来年の目標は、その日に何を食べたとか、ほんの少しでいいから、きのうと違うきょうあったことを見つけて書き込むようにしていくことです。


harutoshura at 22:21|PermalinkComments(0)ねえちゃの近況 

2018年12月27日

電気屋さんのカレンダー

ねえちゃの家の電気製品のほとんどすべてのめんどうを見てくれている電気屋さんから、今年もカレンダーをもらいました。いただいた「2019-CALENDAR」には、

創業47年、お客様と「安心」「信頼」「親切」「ていねい」をモットーに“なが~い・おつきあい”を目指しています。

とあります。

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思えば、ねえちゃとこの電気屋さんとの付き合いは、この店が創業した直後からだったので、もう半世紀近く「わが家の電気屋さん」であり続けてきたわけです。

このあいだ、しばしば訪ねてくれている顔なじみの担当者に会ったので、「実は、グループホームへ入ったもんで。リハビリして良くなって帰ってきたら、またお世話になりますから」と事情を話しました。

ねえちゃと、もう、長い、長いお付き合いのそのかたは、少し目を赤くして寂しそうな表情になり、「そのときを、お待ちしていますので」と、静かに言って、深く頭を下げてくださったのが印象的でした。

ハタから見ていると、ときに「高いの買わされて!」と思うことも無きにしも非ず、ではありましたが、量販店には無い「なが~い・おつきあい」には、やはり味わい深い格別なものを感じます。


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2018年12月26日

特訓の成果

思えば、ちょうど1年前のいまごろ、施設案内のパンフレットや入居時の必要なものリストなどを送ってもらって、グループホームを申し込む準備をしていました。

そして、年明け早々に面接。3月には、部屋が空いたという連絡をいただいて、幸運にも入居することができました。

グループホームへ入るとなると、いつも使っている自宅の固定電話は使えません。そこで、ほとんど使っていなかった携帯電話を新しいのに変えて、電話を掛ける特訓を始めました。

らくらくホン

買い換えた「らくらくホン」で、自宅の固定電話や私の携帯、親戚のところなど、1日に10回以上は掛けまくりました。

それでも、次の日にはすっかり忘れて掛けられなくなって、またイチからの繰り返し。

しかし、そんな特訓の成果もあってか、何とか毎晩寝る前、私のところへ電話をくれています。

一昨日のように一時的に掛けかたが分からなくなって半泣き、というようなことはあっても、なんとか復活。きのう、きょうと元気に自分で掛けてきています。


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2018年12月25日

2019年日記帳

ねえちゃの介護サービス計画には、長年、日課としてきた「夕食後、日記をつける」ことを続けるという項目が入っています。

今週グループホームへ行ったとき、クリスマスプレゼント代わりに渡そうと、きょう、来年用の日記帳を買ってきました。

1ページに2日分書けて、1年間で完結する今年のと同じタイプの日記帳にしました。

日記帳

昨年までは「3年日記帳」とか「5年日記帳」の狭いワクに、文字を詰め込んで書いていたのですが、今年から、あったことを次々にメモ書きできるようにと、十分にスペースが取れる「1年日記帳」に変えました。

日記といっても最近は、「きょうも頭がバカで困る」などと、毎日同じようなことを羅列するだけという感じになってきています。が、それでも毎日忘れずに書き続けています。

今晩は、夜8時半ころと9時半ころの2回、ねえちゃから電話がありました。

きのうは「電話が掛けられなくなった」とガックリしていましたが、きょうは「ひとりで掛けることができた」と、すっかり気を取り直したようです。

お歳暮とか、大掃除とか、お節料理の用意とかで忙しく働くのが長いこと当たり前だった時節ですが、今年はグループホームで迎える年末年始です。

年の瀬になっても何もしないでいる自分に、何となく不安を覚えつつも、それを打ち消すように「何も心配しないで、お任せしていればいいんだね」と、何度も繰り返していました。


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2018年12月24日

電話できないクリスマス

クリスマスイヴの今夜、ねえちゃから、いつもより少し遅い午後9時ごろ、私の携帯に電話がありましたが、「もしもし」「もしもし」「もしもし」……。かかってきても、ウンともスーとも言わず、通話ができません。

電話

その後、こちらから何度か掛けてみても、「おかけになった番号は現在電源が入っていないか、電波が届かない場所にあります」というdocomoの声が返って来るだけです。

状況から察すると、いつものように携帯電話を掛けようとしてはみたものの、なんらかの拍子で操作のしかたが分からなくなって、苦し紛れに「off」のスイッチを押してしまい、それからはどんなふうに掛ければいいか見当がつかなくなってしまった、ということが考えられます。

20分くらい経って、ねえちゃから今度は固定電話のほうに掛かってきて、通話ができました。状況はだいたい私の推測が正しかったようで、グループホームの職員の人に頼んで電話を掛けてもらったのだといいます。

「クリスマスだけど、どう?」と聞いても、それどころではないというように「バカになって、電話も掛けられなくなっちゃった。これからどうしよう。もう、生きてたってしょうがないね」と、最近になく悲観的で、“半べそ”をかいています。

たとえ毎日の習慣になっていたことでも、少しずつできなくなって、何がなんだかわからなくなるのはアルツハイマーの宿命なのでしょう。が、そんな自分がまだ自覚できているというのは、救いです。


harutoshura at 23:27|PermalinkComments(0)ねえちゃの近況 

2018年12月23日

市田柿届く

きょうは久しぶりに、ねえちゃの話題です。何もかもすぐに頭から消えてなくなるねえちゃですが、相変わらず寝る前にはきっちり、忘れずに、私のところへ電話をくれます。

このところずっと落ち着いた声なのですが、昨夜はめずらしく、何かが起こって困ったといった口調で「柿が、柿が、……」と繰り返します。

「柿がどうしたの?」と聞いても、「何だかよくわからなくなっちゃったんだけど」。「お歳暮とかは、それなりに考えて対応してるから大丈夫」というと、「お前がやってくれてるんだね」とやっと心穏やかになって床に着きました。

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きょう、従兄のところに電話をして、昨晩のナゾが解けました。ねえちゃのグループホームへ「みなさんでどうぞ」と彼が贈ってくれた市田柿が、きのう届いたのです。「ねえちゃから、きのうすぐに、お礼の電話もらったけどなあ」と従兄は言います。

「何かいただきものをしたらすぐお礼の電話を」というのは、認知症といえどもねえちゃの“遺伝子”にまだきちんと刻まれているようです。が、当然のごとく、それも一瞬のうちに頭から抜けていってしまっています。

市田柿は、ねえちゃのふるさと、飯田市・下伊那郡産の干し柿。下伊那郡高森町市田の原産で、600年前から栽培されているとされる渋柿を用い、むかしから冬の保存食として重宝がられてきました。

10月下旬から11月中旬ごろ収穫・皮剥きをして、1カ月のあいだ乾燥させます。天竜川から発生する朝霧が柿をゆっくりと熟させた深い味わいや、食物繊維の豊富さなどから、いまでは全国的な有名ブランドになりました。さて、今年の「味」は、いかがでしょう?


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2018年12月22日

アルツィ

「アルツハイマー病」という病気が世界的に容認されるようになった1980年代でも、アルツハイマーが最初に診断したアウグステの診断を疑問視する声がありました。その多くは、動脈硬化症か、まれな神経疾患ではないか、と推測するものでした。

しかし、1998年4月、ドイツを代表する新聞の一つ「フランクフルター・アルゲマイネ(Frankfurter Allgemeine)」紙の学術欄で、アルツハイマーの正当性が立証されたことが報じられることになりました。

「フランクフルトで精神科医として勤務していたアロイス・アルツハイマーの当初の診断に誤りはなかった。彼が診断した患者アウグステ・Dは、実際にアルツハイマー型痴呆に罹患していた。

マルティンスリードの研究者は、ずっと行方不明になっていた脳標本を最近偶然発見した。その標本には特徴的な神経原線維変化とアミロイド斑が見られた。血管性痴呆の兆候はなかった」とされたのです。

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ここで「マルティンスリードの」というのは、ミュンヘンの西側に隣接している小さな町マルティンスリードにあるドイツ最高峰の研究機関、マックス・プランク生化学研究所(Max-Planck-Institut für Biochemie)=写真=を指しています。

こうして、20世紀の初め、比較的若年で始まる老年痴呆に類する病として、アウグステほか数例について命名されたアルツハイマー病は、「老年痴呆から進展し得る急性症候群」とした「アルツハイマー化」などの考え方を経て、20世紀末には、初老期、老年期を問わず痴呆性の一般的な病気として認知されるようになりました。

そして、いまや、ねえちゃを含めて誰もが罹患する可能性をもち、また、家族の人生をも左右しかねない病として、「アルツハイマー」「アルツィ」などと世界のあちこちで日常的に呼び交わされる言葉になったのです。


2018年12月21日

NIA

国民に向けたレーガン元大統領の書簡が米国民に大きな反響を生んだように、「アルツハイマー病」の故郷であるヨーロッパよりもむしろ、アメリカのほうがこの病気に対する取り組みや関心は高まりを見せていったようです。

米国の神経科医、ロバート・カッツマン(Robert Katzman、1925-2008)は、1975年発行の『Archives of Neurology(神経学公文書)』の中で、アルツハイマー病は、アメリカでは死因の4位に挙げられるがどの死亡統計にもその用語が使われていないとして、年齢差による区別を廃止して「老年痴呆」の代わりに「アルツハイマー病」の疾患表記を使うことを主張しました。

NIA
*NIAのサイトから

1974年には、合衆国議会は「老化研究、鍛錬、健康情報の伝播、そして高齢者に関わる他の研究」に対して指導力を発揮する機関として、国立衛生研究所(NIH)の中に、国立老化研究所(National Institute on Aging、NIA)を置くことを承認しています。

その後の修正で、このNIAはアルツハイマー病研究を進める国の最前線の研究機関と位置づけられることになり、国や関連機関からアルツハイマーや老化に絡む研究に資金や人材が投入されました。

また、リタ・ヘイワースやレーガンのような著名人の告白の影響もあって、この病気に対する国民的な理解が進み、アルツハイマー病の研究センターも各地に設立されていきました。


2018年12月20日

長い長いさようなら

晩年のロナルド・レーガンの頭の中に、8年間の大統領任期中の記憶はまったくなく、政治に興味を示すこともなかったそうです。訪問者に対しては丁重に応対するものの、それが誰なのかは分かっていませんでした。発する言葉の語彙も次第に減少していったといいます。

レーガンは「国民にあてた手紙」の中で「不幸なことですが、アルツハイマー病の進行に伴い、家族には重い負担がのしかかります。私は何とかして、ナンシーに辛い思いをさせたくないと思っています。(Unfortunately, as Alzheimer's disease progresses, the family often bears a heavy burden. I only wish there was some way I could spare Nancy from this painful experience.)」と記していますが、元大統領一家といえども、アルツハイマー病は決して患者本人だけのものではありませんでした。

長いさようなら

ロナルドの長女パティ・デイヴィスは、父に捧げる手記『長い長いさようなら』の中で、次のように述べています。

〈アルツハイマーのような病の場合、荒野をさまよっているのは身近な友人や家族、つまりその病の実態を目の当たりにして悲嘆にくれる者たちのほうだ。患者があらぬ世界に迷いこんでしまい、もはやそのあとを追うことができないと思い知らされると、荒野におきざりにされ、あてもなくさまよう気分にさせられる。

そして山腹からはね返ってくるこだまにほっとして足をとめ、耳をすます。それはただのこだま。そのこだまもしだいにやんでしまうと、さらに注意深く耳をそばだてる。
「そういえばこんなことがあったわね……」
そんな言い方を母はよくするようになった。

そうやって思い出にせっせと命を吹きこもうとするのは、父がいつも腰かけていた椅子に腰かけたり、廊下を歩いたり、窓の外に目をやるといった何気ない行為が、ともすればそこにぽっかりあいた穴をいやでも気づかせてしまうから、だから過去の情景や、そのときかわされた会話の断片をせっせとよみがえらせては、そうした思い出を手放すまいとし、ホコリをはらいのけ、いつまでも鮮やかであれと願うのだ。〉


2018年12月19日

ロナルド・レーガン

アルツハイマー病という病気について、私がはっきり認識するようになったのは、アメリカ第40代大統領のロナルド・レーガン(1911-2004)のメッセージでした。ホワイトハウスを去って5年後の1994年11月、彼は、国民にあてた手紙という形で、自らの病気について告白しました。

レーガン

「先日、ある人から私はアルツハイマー病にかかっている数百万のアメリカ人のうちの一人である、と告げられた。ナンシーと私は、私人としてこの事実を受け止めるか、あるいは世間に公表すべきか、決心しなければならなかった。そして私たちは、世間に公表することが非常に重要だと感じた」。

そして、「私はいま、人生の黄昏にいたる旅に出かけます(I now begin the journey that will lead me into the sunset of my life.)」という感銘深いメッセージを残しました。

レーガンがアルツハイマー病と診断されたのはこの前年の1993年とされますが、大統領在任中には既に患っていたとする説もあります。次男のロンは2011年出版の回顧録の中で、1984年のモンデール前副大統領との討論会で父ロナルドの異変に気がついたと指摘しています。

また、ホワイトハウスのスタッフも、ボヤ騒ぎがあったときに煙が充満する部屋の中で全く身動きを取ろうとしなかった、といった“奇行”を目撃したといいます。病は年を追うごとに進行し、元大統領は、プライベートな静かな環境で余生を送らざるを得なくなりました。

妻は自宅にホワイトハウスの執務室を再現し、レーガンはそこで新聞を読むなどの「執務」を毎日行うことで症状の進行を食い止めようとしました。2001年に南カリフォルニアの自宅で転倒して腰を骨折してからは、ほとんど寝たきりのより不安定な状態になっていたそうです。


2018年12月18日

女優の死

1977年、リタ・ヘイワースは禁断療法を行うようになりました。『ギルダ』でリタと共演して一躍名をはせた俳優グレン・フォード=写真=に対し、垣根越しにジンの空瓶を投げつけるというようなアルコール中毒者的な光景を見せつけるようになったのです。

G. Ford Gilda 3 (1946)

荒れてビバリー・ヒルズの通りをさまよい歩き、どこにいるのか分からないようになると、彼女は住所が書かれたメモ書きをバックに入れて持ち歩くようになりました。彼女はアルコール依存症とされましたが、実際は自分に絶望して飲まざるをえなかったのです。

彼女には、オーソン・ウェルズ(2番目の夫)など5回の結婚歴がありましたが、2番目の夫アリ・カーン皇子との間にできた娘ヤスミンは、母親が誰なのかを分からせようと努めました。

彼女は母親を鏡の前に立たせて「見える? これはあなたよ。リタ・ヘイワースよ!」と語りかけましたが、母は自分の赤毛をじっと見つめているだけでした。

1981年、医師はアルツハイマー病との診断を下しました。リタは、娘や看護師の世話を受けてなんとか暮らしていかなければならなくなりました。1日に12時間の睡眠をとった残りは、うつろに前を見つめているだけでした。

1984年には、ほとんど口もきけなくなっていました。まれに「彼だったらそうするわ」とか「彼は私がどのようにしなきゃいけないか、やってみせてくれたわ」などと突然口走りました。

1987年、リタは精神錯乱の中、からだの自由もきかず、ニューヨークの自宅で人生の幕を閉じました。68歳でした。一世を風靡したこの有名女優の死は、「アルツハイマー病」を世界中に流布することになったのです。


2018年12月17日

リタ・ヘイワース

「アルツハイマー病」が、医学者たちが共有する概念として定着しつつあった1960年ころ、一人の世界的な女優が、この病気に苦しめられるようになりました。

1946年に公開されたチャールズ・ヴィダー監督の「ギルダ」で、運命の女ギルダを演じた米国の女優、リタ・ヘイワース(Rita Hayworth、1918-1987)=写真、wiki=です。

ヘイワーズ

「踊る結婚式」(1941)、「晴れて今宵は」(1942)などの映画に共演したフレッド・アステアは、そのころ、昼食前に新しいステップを見せると午後には完璧に覚えていた彼女の物覚えの速さに「ステップを食事中に頭の中で稽古していたに違いない」と舌を巻いていたそうです。

ところが、後に「その片鱗すら残っていない」事態が彼女を襲います。1960年、『映画と女性』という雑誌には「栄光に輝いていたリタ・ヘイワースは、しかしこの輝きを燃やし続けるために、全精力を注がねばならなかった」と記されました。

彼女は、自宅の寂しい部屋に一人で入るのを怖がり、突然さけび声を上げたり、やみくもに正当な理由もなく他人を非難するようになりました。そして、自分が言うべきセリフをしばしば忘れ、撮影時には一文ずつ区切って撮らなければならなくなったのです。


2018年12月16日

痴呆の半数以上にアルツハイマー

1966年、B.E.トムソン、G.ブレスト、M.ロートが画期的な論文を発表しました。

彼らは、痴呆患者50人を臨床的に観察したうえ、死後、脳を解剖して組織病理学的に分析しました。

それを健常者と比較すると、痴呆患者の半数以上にアルツハイマー病を示す病理所見が見られた、というのです。

1970年代になると、神話化されていた動脈石灰化説も、全面的に否定されるようになります。

カナダの臨床神経科学者V.C.ハッチンスキーは「老年者の知的退行に対し“脳動脈石灰化”の概念を適用するのは、恐らく医学における最も一般的な誤りであろう」と結論付けました。

このようにしてアルツハイマー病は、それまで老年痴呆といわれていた高齢者の知的退行の原因の中で最も多い病気として位置付けられるようになったのです。

しかも、先進国を中心にした急速な平均寿命の延びが、アルツハイマー病を、世界的に対策が迫られている世紀の病へと押し上げてきているのです。


2018年12月15日

動脈硬化原因説

さて、再びアルツハイマー病の歴史のほうに話を移します。

1967年9月、ローザンヌで「老年痴呆――臨床と治療的側面」というシンポジウムが開かれました。

ここで、ゲッティンゲン大学精神科のJ.E.マイヤーとH.ラウターが、老年痴呆の概念について解説し、ラウターは次のように要約しました。

「老年痴呆とアルツハイマー病は異なる年齢で発症する同一疾患であるという点でほかの医師たちと合意が得られた。したがって“アルツハイマー痴呆”の名称を提案する」

しかし当時はまだ、老年痴呆が、動脈硬化や血管の中膜にカルシウムが沈着して硬くなる石灰化によって起こるという“神話”が色濃く残っていました。

しかし、英国人の病理学者が、60年代に痴呆で亡くなった患者の血管を調べたところ、痴呆者と非痴呆者に同程度の動脈硬化が認められました。

また、別の病理学者のグループは、老年痴呆の脳には動脈硬化はあまり頻繁には見られなかったと報告しました。

こうして、欧米でいまだ明確な名前がないまま症例が蓄積されていた病気が、ついに“アルツハイマー病”として統合される機が熟してきたのです。


2018年12月14日

11月の生活記録

ねえちゃのグループホームから、11月の生活記録がとどきました。

「正々堂々と戦うことを誓います」と運動会で選手宣誓をする姿や、「甘くな~れ」と干し柿作りをしている写真もありました。「昔は家で一晩中作った。今から作って12月には食べれるよ」と,話していたそうです。

また、「生まれは農家だから」と、干し柿を両手で擦り合わせる揉んだり、なかなか手慣れたところも見せたようです。

11月25日にあった音楽会では、童謡から昔の流行歌まで、鈴でリズムを取りながらしっかりと声を出して、棟対抗の歌合戦にも挑んでいたとか。

「いい大根だね」と酢大根の漬物作りを手伝ったり、「ボタンがきれいだね」と穴を掘って花の苗を植えたり。なかなか充実した日々をおくっているようです。


harutoshura at 21:00|PermalinkComments(0)ねえちゃの近況 

2018年12月13日

お歳暮

ねえちゃからのお歳暮が届いたと、送ったかたから電話をいただきました。

グループホームへ入って自宅は空き家に近い状態。当人の記憶もままならないので、今年は、ねえちゃのことがよく分かっているごく最小限のかたにしました。

きのうもグループホームで「コレコレの人に贈ってるから」と何度も念を押して話したのですが、「お歳暮」という概念さえも、ねえちゃの頭の中で把握するのが困難になりつつあるのかな、という気もしつつあります。

きょうも寝る前の夜8時ごろ、ねえちゃから電話があったので「携帯にお歳暮のお礼の電話かかってきたでしょう?」と聞くと、言われてみれば何となくそれらしきがあったかな、という程度の記憶のようです。

だれに、どのようなものを贈っていたのか、年中行事の記憶も失われつつあるいま、来年から贈答品などどうしていったらいいのか。思案のしどころの一つになってきました。


harutoshura at 23:04|PermalinkComments(0)ねえちゃの近況 

2018年12月12日

足をバタバタ

きょうの午前中、グループホームのねえちゃを訪ねました。

「マスクをしていても、お前の顔はまだわかる」と言って、ベッドサイドに腰を下ろし、いつものように両足をバタバタさせて喜んでいました。

家にいるときには気づかなかったのですが、坐ると足が床に着くか着かないかのホームのベッドは、気持ちを足で表現するのピッタリのようです。

同じことを話す繰り返しが、だんだん短くなって来ている感はします。が、ホームへ入ってから、投げやりにならず、穏やかな表情で楽し気にしているのにホッとさせられます。

「クリスマスだけど、何か欲しいものある?」と聞くと「そんなん、なんにもいらない」。「何か困っていることある?」「頭がおかしいことだけ」。

そして、「だけどさ、ここに居るお金だいじょうぶなの?」と、心配性らしい、いつもの質問の繰り返しがはじまりました。


harutoshura at 21:56|PermalinkComments(0)ねえちゃの近況 

2018年12月11日

4週間ぶり

さて、きょうはねえちゃの話題です。4週間ぶりにきょう、ねえちゃの自宅へやって来ました。本格的な雪はまだのようですが、夜は厳しく冷え込みます。

郵便受けにあれこれ入っているかなと思いましたが、そうでもありません。電気や水道料使用量、さらには水道のメータ交換のお知らせ、

介護保険給付費決定通知書に、生活互助会の会報誌、ショッピングセンターのクリスマスセールの割引券、それから喪中を知らせるハガキが1枚など。

留守鞭電話には、地元の新聞社から新聞購読の案内らしきが、3件入っていただけでした。

家のいらないものを少しずつ処分をしているのですが、ようやく冷蔵庫が空っぽに近くなった程度で、なかなか減っていきません。

小さくても一軒家で、長野の冬の寒さのなか、高齢者がひとりで暮らすというのは、ねえちゃでなくても寂しいだろうな、と感じます。


harutoshura at 21:28|PermalinkComments(0)ねえちゃの近況 

2018年12月10日

アルツハイマー化

第2次大戦前後はアルツハイマー病について取りざたされることはあまりなかったようですが、『アルツハイマー』のコンラート&ウルリケ・マウラーによれば、1960年代初頭、学会でその病名が徐々に認められてきた書類が見つかったといいます。

それによると、1964年にデュッセルドルフのエルフリーデ・アルベルトという医学者が発表した「同一疾患過程の発現としての老年痴呆とアルツハイマー病」という論文では、もはや、アルツハイマー病と本来の老年痴呆の間には本質的な違いがあると見てはいません。

「アルツハイマー自身は初老期痴呆と老年痴呆の根本的な相違を明確に結論づけなかった。しかしながら、アルツハイマー病の患者はより急速な経過を示すようである」としているのです。アルベルトは「アルツハイマー化」という新たな概念を導入しました。

それは「潜在性の老年痴呆に既に3年罹患している患者Sch.に外因性障害が加わり、古典的なアルツハイマー病が生じた」というように、既存の老年痴呆がアルツハイマー病の急激な発症によって悪化する過程を表したものでした。

アルベルトはアルツハイマー病を、老年痴呆から進展しうる急性症候群で、老年痴呆の一部であるに違いないと結論づけたわけです。そして、この急性症候群は、予想を上回る速度で重篤な脳障害に進展することもあり得ると考えました。

さらに彼女は、詳細な言語分析の結果、老年痴呆とアルツハイマー病のにおける言語の退化は基本的に同じで、解剖学的にも臨床的にも、これらに根本的な違いはない、という結論を導き出しています。


2018年12月09日

70歳の患者

アルツハイマーが亡くなってから20年以上経った1936年8月、フランクフルトで開かれたドイツ神経精神医学会で、ピットリッヒという医師がアルツハイマー病と診断した70歳の患者=写真、コンラート&ウルリケ・マウラー『アルツハイマー』から=について紹介しました。

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*『アルツハイマー』p.319

患者は、絶え間なく動き、両手で顔をぬぐい、髪の毛を後ろに撫で付け、手を擦り合わせ、大腿に沿って撫で、右手で左の手の平を摘もうとする。こういう動作を単調に繰り返しました。ピットリッヒはこうした奇妙な態度を「常同的反復作業せん妄」と名付けました。そして講演では、次のように述べたといいます。

「下唇を前に突き出し、上唇を噛み締め、舌を突き出し、口を左右にキッと締めています。口唇に触れた指を吸う、いわゆる吸引反射が認められました。パイプ用のタンパー(吸っている際に熱で盛り上がってくるタバコの葉を押さえる道具)、タバコ、マッチが、患者が座っているテーブルの上に置かれ、パイプは手に握らされました。彼はパイプを分解しようとし、それからタンパーとパイプを一緒に押しやりました。

蝋燭は彼の右手に握らされ、燭台とマッチが机の上に置かれました。彼は蝋燭をテーブルの上に置き、燭台の首をねじろうとし、何本かのマッチを取り出して親指と人差し指の間にきちんと並べました。マッチを擦る仕草をしましたが、摩擦面ではない側面でした。その後、マッチをフォークのように口に押し込み、あたかも何かを拾い上げるかのようにそれで机の上をぬぐい取り、再び前かがみになりマッチを口まで持っていきました。

次に彼は蝋燭を手に持ち、蝋燭の先端にしゃぶりつきました。彼はナプキンリングを飲物用に使いました。明らかに対象物を認識しておらず、その意味も分からない、精神盲の状態でした」

この発表の際、患者の主だった動きとその障害を示す映像が示されました。また、脳組織の顕微鏡検査では、アルツハイマー原線維変化や多数の老人斑。脳には高度の委縮が認められ、脳重は1100グラムしかなかったそうです。

ここで注目すべきなのは、ピットリッヒが、初老期までではない70歳の老年痴呆の患者に対して「アルツハイマー病」と診断したということです。このように、病名の統一に向かって歴史は少しずつ動き出していったようです。


2018年12月08日

死にいたらない病

100年前にクレペリンが自らの教科書で「アルツハイマー病」という病気を提示したとはいえ、以前も見たように、その臨床的解釈は「現時点では不明」とされていました。

実際、この新しい病気についての模索がはじまったばかりの当時と、現在アルツハイマー病と呼ばれている病気の概念とでは、かなりの隔たりがあるようです。

アルツハイマーの後継者の一人ともいえる娘婿のゲオルク・シュテルツは、1921~1922年に発行された「精神医学及び司法精神医学」の中で、ミュンヘンとブレスラウの病院で行った22症例をもとに「アルツハイマー病そのものが原因で死にいたることはない」と結論づけづけています。

治療によってアルツハイマー病の症状の悪化を抑えることができる場合はあるものの、確かな治療法のない不治の病という現代の考えかたとはかけ離れています。

また、ヴュルツブルクの精神神経科病院に勤務していたエルンスト・グリュンタール(1894-1972)はアルツハイマー病に関する多くの研究発表の中で、「現在のところ、少なくとも我々の手法による組織病理像だけでは、老年痴呆とアルツハイマー病を鑑別することはできない」と結論づけたほか、次のような見解も示しています。

「アルツハイマー病に対する鑑別診断に関しては組織学的な相違は殆どないと言える。臨床的にも老年痴呆のある例では、年齢的な違いを除いて、軽度および中等度のアルツハイマー病と全く区別することができない。しかし、アルツハイマー病では言語障害――特に喚語困難――がしばしば初期症状となるが、老年痴呆では重度の場合でも稀にしか出現しないという本質的な相違はあるように思える」

いまからみると、初老期だと「アルツハイマー病」で、高齢になってからだと「老年痴呆」とやや差別感のある表現でとらえられていたようにも感じられてきます。


2018年12月07日

追悼

1915年、アルツハイマーの死に際して述べられた弔辞では、意外にも、彼の名前がついた病気についての言及はほとんどありませんでした。

アルツハイマーとともに「総合神経精神医学」という学術誌の編集をしていたマックス・レヴァンドウスキーも、さらにはアルツハイマー病を紹介したクレペリンでさえも触れませんでした。

Spielmeyer

ただ、娘婿のゲオルク・シュテルツはアルツハイマー病をきちんと認識していました。

「アルツハイマーの名に由来する病気について、特に取り上げてみたい。それは初老期に起こる珍しい疾患で、40歳代に現れ、痴呆が極めて速く進むのが病気の特徴である。それゆえ臨床的に非常に興味深く、更なる研究が期待されていた。というのも、知能が低下する他に失象徴、失行等の症状が出現し、病態が純粋な精神症状と局所巣症状の間で変動するからである」

ミュンヘンのアルツハイマーの後任、ヴァルター・シュピールマイヤー=写真=は41ページに及ぶ追悼文の中で、アルツハイマー病について次のように述べています。

「1906年、それまでに知られていない特異な疾患を、アルツハイマーは詳細に記載した。大脳皮質に特異物質が沈着し、細線維が太い束と叢に変化することが最も顕著な解剖的特徴であっる。彼はフランクフルト精神病院で収集した資料に再三立ち戻り、我々にこの大脳皮質の特異的疾患を紹介した。今日我々はこの病気をクレペリンに従い“アルツハイマー病”と呼んでいる」


2018年12月06日

干し柿の手配

さて、アルツハイマーを離れて、久しぶりにねえちゃの近況です。

夕食後、グループホームの食堂でテレビを観ながらのだんらんが終わる午後8時半くらいになると、忘れることなく毎日、私のところに電話をくれます。

話すことといえば、「いま部屋へ戻って来て寝るとこ。楽しくやってるけどバカで困る。おやすみ」といつもいっしょです。

それにしても、他のことは大抵すぐに頭の中から消えていくのに、どうして電話することだけは忘れないのか。習慣になっているからなのか。いまだ、不思議です。

市田柿

きょうの電話で「そろそろ干し柿のシーズンだね」というと、めずらしく「ああ、食べたい気がする」と意欲を見せました。

そういえば、10月の生活記録によると、干し柿に関する紙芝居で観て、実家の庭に柿の木があって干し柿を作った思い出をスタッフの人に話したそうです。

昨年までは親戚に頼んで、干し柿をねえちゃの家へ送ってもらっていたのですが、今年からはそうはいきません。

グループホームには、食べものの持ち込むのにルールがあります。今年は、干し柿をどんなふうに手配しようか、ちょっぴり思案です。


harutoshura at 22:24|PermalinkComments(0)ねえちゃの近況 

2018年12月05日

アルツハイマーの死

アルツハイマーは温泉療養で元気にはなったものの、治癒することはありませんでした。それでも、精力的に仕事に取り組みました。

1913年秋にはブレスラウで開かれたドイツ神経学会総会を主催し、二つの講演を引き受けました。総会に出席したクレペリンは、アルツハイマーがもはやミュンヘン時代の彼ではないことに気がついていました。

「1913年、ブレスラウで開催されたドイツ神経学会総会で彼と再会した。彼は、外見は愉快に振舞っていたが、気が滅入っているようであったし、将来を悲観的に見ていた。それが最後の出会いとなった。職務を十分に果たすという点では、彼は自分の健康に適切な注意を払わなかった」。

墓
フランクフルトにあるアルツハイマーの墓

翌1914年6月には第1次世界大戦が勃発しました。アルツハイマーも少なからず、この戦争の影響を受けることになります。新聞では、イギリス軍も英植民地軍の一部でもフランドルの塹壕で精神病患者が増えているとし、ロシア軍では聖母マリアが現れてまもなく自由を約束したという兵士のことが報道されました。

アルツハイマーはこうした報道にはかなり楽観的で、「確かに、戦争は神経を傷つけるかもしれないが、神経にとっても有益でもあるという確固たる期待を我々に抱かせもする。……戦争は、意志が強く勇敢で意欲的な民衆を養成し得るのである」といった発言さえしています。

そして大戦のさなかの1915年12月19日の日曜日、アルツハイマーは、家族に看取られて生涯を閉じます。51歳でした。

病院の助手は、上司に思いを寄せて次のような新聞広告を出したそうです。

「土曜から日曜にかけての夜半、精神神経病院長アロイス・アルツハイマー教授は、数週間にわたる療養の後に亡くなられた。我々は、学問や医業において我々に優れた模範を示した学識の深い教師、決して忘れえない真の父親のような友人を失った」。


2018年12月04日

ヴィースバーデン温泉

ブレスラウへの旅路で罹った疾患は次第に重篤な状態になっていきましたが、アルツハイマーは大学で多くの講義をこなし、病院に積極的に姿を見せて診療に励みました。

1913年2月にはブレスラウ精神神経科協会で多くの講演をこなし、3回学会に参加しました。が、学会の終了後、アルツハイマーはとうとう力尽き、療養をせざる得なくなりました。

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*1900年ごろのヴィースバーデン

療養の地は、フランクフルトの西約30キロにある、ヨーロッパで最も古い温泉地の一つであるヴィースバーデン (Wiesbaden) でした。

アルツハイマーが滞在した保養所は、25の休憩室を有する50種類の温泉、モール(泥炭)浴、炭酸浴、電気・熱・水治療、温泉泥によるファンゴパックなど、当時としては最高の設備が整ったところでした。

彼を訪問した神経病学者のフランツ・ニッスルによると、「1913年、私は心臓病を治療中の彼をヴィースバーデンに訪ねた。彼が帰郷の途中、ハイデルベルクに寄ったとき、私は彼の回復を心から嬉しく思った……。彼は、安静などいっさい聞く耳を持たず、できる限り耐え抜くという体であった」といいます。


2018年12月03日

旅路

1912年8月、アルツハイマーは家族とともにミュンヘン中央駅からブレスラウへと旅立ちました。アルツハイマーに伴ったのは、17歳の娘ゲルトルーデと11歳のマリア、それから、病気で亡くなった妻の代わりに子どもたちの世話をしていた40歳の妹マーヤでした。

この旅路は、暑い夏の日でした。仕事や引っ越しの作業もあってへとへとに疲れ切っていたアルツハイマーを思わぬ不幸を襲うことになります。はっきりした自覚症状はなかったものの、旅行中に急性疾患に罹ったのです。

クレペリンは後日「新しい勤務地に向かう途中、腎炎および関節炎を伴った感染性扁桃炎にかかり、それ以降立ち直ることはなかった」と述べています。

これ以降、アルツハイマーは少し無理をするだけで呼吸困難や動悸に悩まされることになります。それでも、懸命に仕事に励みました。

精神病院

大学でのアルツハイマーの仕事について、ブレスウラ新聞の「王立精神・神経病院」=写真、『アルツハイマー』から=の案内欄には次のように記載されていたといいます。

外来診療時間:週日の午前9時~11時
事務受付:週日の8時~1時と3時~6時
院長:アルツハイマー教授
ベッド数:80
入院日は週日、入院については当院医師の診療後に決定
入院諸費用:1等級では自国民が8マルク/日、外国人は9マルク/日。2等級ではそれぞれ5マルク/日、6マルク/日。3等級ではそれぞれ2マルク/日、3マルク/日。保険組合加入者は3等級で2.5マルク/日支払うものとする。1等級と2等級では、医療報酬を追加請求することもある。


2018年12月02日

ブレスラウ

「アルツハイマー病」が専門家の間で世界的に知られ、優れた研究者であるとともに教育の資質を備えた優秀な臨床医であるという世評が広まったアルツハイマーは、1912年7月、ミュンヘン大学のクレペリンのもとを離れて、ブレスラウ大学精神神経科の教授ならびに附属精神病院長として招聘されます。彼は48歳でした。

ブレスラウは、現在はポーランド南西部の中心都市(ポーランド名はブロツワフ)ですが、第二次大戦後まではドイツの一部でした。オーデル川中流の両岸に発達し、肥沃で広大な平野を後背地に控えて小麦やテンサイを中心とした穀倉地帯にあります。当時はドイツ7番目の大都市で、人口約50万人。15の橋がオーデル川上に張り出していたため「東欧のヴェニス」と呼ばれていました。

ブレスウラ大学

学術文化の中心地で、1702年に設立されたアカデミーにまで遡ることができるブレスラウ大学=写真=は、中央ヨーロッパ最古の高等教育機関のひとつとされます。19世紀後半には急速に発展し、数学のディリクレ、物理のキルヒホフ、細菌学者フェルディナント・コーンら、世界的な大学者たちが集まっていました。

教授選考の際、ミュンヘン大学のフリードリッヒ・フォン・ミュラー教授を中心としたの調査では、アルツハイマーについて次のような評価が得られたといいます。

「アルツハイマーは何年も前から、そして今もなお、大学附属病院で精神病の患者がでると、コンサルタントとして参画している。私は助手たちの報告から、アルツハイマーがいかに精神病者の扱いを心得、診断を明快に行うかを確認できた。

私自身もアルツハイマーの講義を何度か聴講し、特にヒステリーと脳動脈硬化症の鑑別診断に関する素晴らしい二つの講義は記憶に残っている。

人間的にも、性格的にも、アルツハイマーはミュンヘンで人望が厚い。彼が立派な臨床家になることを確信しているし、なぜミュンヘンでアルツハイマーが今までいつも無視されてきたのか、何年も不思議に思っていた」。


2018年12月01日

「地獄、地獄……」

米国人のアルツハイマー病初症例となったウイリアム・C・Fとの会話について、ゴンサロ・ロドリゲス・ラフォラ医師は次のような報告をしています。

──今日は何曜日ですか?

「よくは分かりません、奥さん」

──今日は何日ですか?

「分かりません、お嬢さん、ご主人、ご貴殿」

──今は何年何月ですか?

「ちょうどこの角の下です、ご貴殿、ご主人」

──この病院に入院してどのくらいになりますか?

「ちょうどあそこ、お嬢さん、あそこがすべてです。知っていることはあなたに言います」

──いまいるところはどこですか?

「わかりません、わからない、ぜんぜん、なんにも、なんにも、なんにも、ゼロ」

──それはどこですか?

「地獄、地獄、地獄、地獄、地獄、地獄、地獄」

──どこから来ましたか?

「もう言いましたよ。ランカスターにいました。なんにもわかりません」。そして、患者は出しぬけに、美人が話しているのを聞いた、といいました。

──彼女はなんと言っていますか?

「あなたに話したのか、話すべきなのか、わからない、きれい、きれい、かわいい、かわいい」

さらに論文によれば、患者は後になってしばしば排泄物を口にした。彼はだらしなくて、服を破ったりした。また、ときどきあてもなくぶらついたり、一日中ベッドから出てこないこともあった、といいます。

質問も、答えも、アルツハイマーと患者たちとのやりとりを彷彿とさせます。このようにして「アルツハイマー病」の診断は、世界へと広まっていくことになったのでした。