2018年10月
2018年10月31日
体重37キロ
アルツハイマーが郵便で受け取ったカルテは全部で31枚ありました。きのう見た1902年6月のカルテには、アウグステがたいへん拒絶的で、診察しようとすると叫んだり叩いたりする様子が記されていました。
その後の1904年4月2日の記載には「まったく変化なし」。同年11月11日には「ベッドにうずくまり、シーツを丸め、むやみに何かをせずにいられず、自分の体をひっきりなしに汚した。以前のように泣き叫ぶことはなくなった」とありました。
1905年5月以降、カルテは月に何度か補足されています。健康状態や態度のほか、体重も記録されていました。
たとえば1905年6月29日の記録には「非常にうるさかった。10時に入浴。体重74ポンド(37キロ)」。いまのねえちゃとは違い、ずいぶんとやせ細っていたことがわかります。
1905年7月12日「完全な意識混濁状態、足を胸につけてベッドでうずくまる。便と尿で常に汚れたまま。無言でいるが、何かハッキリしない独り言をいう。食事の介助が必要。時にこれといった理由なしに興奮状態に陥り、大声で叫び、唸る」
1905年11月7日「うずくまった格好でベッドの中で唸る。何を言っているか分からない。質問に答えるがまったくつじつまの合わないことを言う。シーツを繰り返し指でつまみ、ベッドをしょっちゅう引っ掻き回す。叫び声を上げるので、静かにさせるために夜何度も風呂に入らねばならない。栄養を十分に摂るとまた少し元気になる」
1905年12月29日「監視ホールのベッドで、膝を胸部にぴったりとつけ、硬直気味に身をよじっている。足を伸ばそうとすると高度の緊張と抵抗にあう。特に夜中にときおり、大声で叫ぶ」
カルテの記録からは、アウグステは頻繁に睡眠薬を与えられていたこともうかがえたそうです。1905年5月7日には睡眠薬を飲んでも静かにならなかったものの、同年12月12日には翌朝まで熟睡しました。
1906年3月1日には、ひどく落ち着きがなく睡眠薬が与えられましたが、静かにならなかったため11時に風呂に入っています。このころは、死亡直前に至るまでアウグステは毎日風呂に入ってたようです。
2018年10月30日
「死」の連絡
1906年4月9日、フランクフルト精神病院の研修医から、アルツハイマーに電話が掛かってきました。
彼は当時、クレペリンとともにミュンヘン王立精神病院へ移り、解剖学研究室を主宰していました。
電話は、「アウグステが昨日亡くなった」ことを告げるものでした。
アルツハイマーはかつての上司に、カルテの他、顕微鏡で調べるためにアウグステの脳を提供してほしいと頼みました。
彼は、比較的若いアウグステには、健忘症と病的嫉妬という症状の背後に、これまでに知られていない特異な病気があるのではないかと推測していたのです。
こうして入手したカルテの一つ=写真=には、アルツハイマーの最後の署名のある、次にあげる1902年6月記載のものもありました。
「アウグステ・Dは診察しようとすると相変わらず拒否的で、泣き叫び、叩いたりする。彼女は不意に、しばしば数時間にわたり泣き続け、そのためベッドに押さえつけなければならない。食事に関しては、彼女は予め決められた食事をもはや摂ることができない。背中にはできものができている」
ていねいに紐で綴じられた濃紺の表紙には、
フランクフルト市立精神病院
アウグステ・D(旧姓H)に関する病歴
年齢:51歳
宗教:キリスト教改革派
1から12までの連番の欄には、項目として「入院」と「退院」が記載され、1番の入院の欄には「1901年11月25日」が、退院のところには定規で横線が引かれ、2番から12番までの欄はていねいに右上から左下にかけて車線で消されていました。
2018年10月29日
似ている
日曜日になるとねえちゃの頭に何らかのシグナルが起動するのか、いつも朝早くから電話がかかってきます。
きのうは、朝に加えて昼のお昼寝前、そしていつもの夜の就寝前と3回電話がありました。3回目のときに「いつも思うんだけど、あの若い子、似てるんだわ。ダイエーにアルバイトに来ていたんじゃないかと思うの」と少し興奮気味にいいます。
グループホームのスタッフの一人が、ねえちゃがむかし勤めていたスーパー「ダイエー」でアルバイトをしていた学生さんによく似ているというのです。
ねえちゃは長野店がオープンした1976(昭和51)年にダイエーに入り、その魚売り場で20年ほど働きました。退職して数年たった2000年末に、ダイエー長野店は閉店しています。
もし、ねえちゃといっしょに働いていたとすれば、それから少なくとも20年以上経っていることになります。とすると、仮にそのとき高校生アルバイトだったとしても、少なくとも現在40歳くらい。もはや「若い子」とはいえない年齢になりつつあるはずです。
「その人、40代くらい?」と聞くと、「えっ、そんな年になってるの!」と、ねえちゃはビックリ仰天しています。年月(時間)が経つ、という認識はねえちゃの頭から消えつつあり、あのときのまんまの姿が頭の中に映っているようです。
「気になるんだったら、それとなく聞いてみればいいじゃない。いまさらべつに、恥ずかしがってもしょうがないでしょ……」
2018年10月28日
最後の診察
51歳のアウグステが、アルツハイマーの勤務するフランクフルト市立精神病院に入院したのは、1901年11月のこと。彼女のカルテにアルツハイマーが最後に記載したのは、1902年6月でした。半年あまりの付き合いだったことになります。最後のカルテには――
「アウグステ・Dは診察しようとすると相変わらず拒否的で、泣き叫び、叩いたりする。彼女は不意に、しばしば数時間にわたり泣き続け、そのためベッドに押さえつけなければならない。食事に関しては、彼女は予め決められた食事をもはや摂ることができない。背中にはできものができている」
また、二人の最後の会話は次のようなものだったそうです。
「こんにちは、Dさん」
「ああ、仕事がうまく行くようになさったら。私はもう喋れません」
あてもなくさまよったり、無計画に動きまわったり、大声で叫んだり嘆いたりといった彼女の落ち着きのない言動は、日増しに多く現れるようになっていました。グループホームで落ち着いて暮らしていられるねえちゃと比べると、アウグステは相当に重症になっていたようです。
アルツハイマーは1902年、著名な精神科医、エミール・クレペリン(1856-1926)=写真、wiki=の研究助手としてハイデルベルクの病院へ移っています。
アルツハイマーはこの年、38歳。前年の1901年には妻セシリーを病気で失っています。フランクフルトを去ってからも、熱心に診てきた患者アウグステのことを忘れることはありませんでした。
2018年10月27日
診察にならず
入院して3カ月後の1902年2月になるとアウグステは、絶えず落ち着かず、不安でどうしようもないという状態になっていました。
毎日のように反抗的な態度を取るので診察にならず、彼女はほとんど一日中、温浴室にいました。
寝室では寝入ることができず、自分のベッドを離れて他の患者のベッドに行って起こしてしまうため、夜はたいてい隔離室へ連れていかれました。
アウグステは長時間の徘徊ののち眠りに入りましたが、アルツハイマーは彼女がおかしな格好で寝ることに気づきました。
枕を自分体の上に載せて、掛け布団の上にうずくまった姿勢で横たわるといった具合に、寝具をまったく用途に合わない方法で用いていたのです。
たまに落ち着いていると鍵の掛かっていない開放病棟に移されましたが、回診が始まると担当医を途方に暮れた顔つきで迎え、「ああ、こんにちは、何でしょうか?」とか「何かご用ですか?」とかしか言いませんでした。
アウグステは自分が家にいて、お客を迎えていると信じていたのです。だから「夫はすぐ来ますから」というのですが、思い通りに運ばないのですぐに顔をそむけ、また徘徊したりするようになりました。
彼女を縛ろうとすると泣き始め、意味のない言葉を発して嘆き、憤懣をぶちまけました。栄養状態は良好でしたが、アルツハイマーと3カ月前にしていたような長い会話は、もはやできなくなっていました。
2018年10月26日
写真
診察をつづけていくうちにアルツハイマーは、アウグステと親密な関係を築くことができました。
やがて彼は、アウグステの症例が医学的にたいへん重要なものと気づき、病気の経過を詳しく記載しようと努めました。病院の写真係には、彼女の写真をたくさん撮ることを命じました。
1902年11月には、いま世界中で知られている印象的な写真(下)が撮られました。
アウグステは少し腰を曲げて横を向いてベッドに座っています。髪は長く暗褐色で、顔の両側に巻き付くように垂れています。
顔は細めで、額と眼の下にしわが多く、鼻の周りのしわはくっきりとしています。彼女はボタンの付いた白いナイトウェアの病人服を着て、ぼんやり物思いにふけっているように見えます。
このときは落ち着いた、穏やかな気分だったのでしょうか、手入れが行き届いた指の長い手は、膝の上できちんと組まれています。
治療の計画は、アルツハイマーが自ら立てました。彼はアウグステに温泉療法をするように指示しています。
温かいお湯やぬるま湯に、数時間、あるいは数日にわたって入ることによって、患者の興奮状態を和らげる治療法を、アルツハイマーは研究していたのです。
2018年10月25日
入院
アウグステは、自分が聞いた会話の内容を自分のこととして受け取っていました。ただ、言語障害や麻痺のような症状は、まったく見られなかったといいます。
彼女は、しばしば死について語りました。朝方は興奮状態で震え、近所の家々のベルを鳴らしては、ものすごい音をたててドアを閉めました。
特に乱暴だったというわけではなかったようですが、入院する直前にアウグステは隠せるものをなんでも隠してしまったため、彼女の家は大混乱をきたしました。
こうして夫の手に負えなくなったアウグストは、1901年11月25日に入院し、アルツハイマーの診察を受けることになります。
ホームドクターからの紹介状には大きな字で次のように記されてたそうです。
「アウグステ・D婦人――鉄道書記官カール・D氏夫人、住所メールフェルダー・ラント通り――はかなり長期にわたり記憶力減退、被害妄想、不眠、不安感に悩まされております。患者はいかなる肉体的精神的労働にも対応できないものと思われます。彼女の状態(慢性脳麻痺)は当地の精神病院での加療を必要とします」
2018年10月24日
不信
さて、ここでまた世界ではじめてアルツハイマー病との診断がなされることになるアウグステの話にもどります。
夫の話によると、アウグステは1901年3月まではまったく普通だったといいます。それは、1901年3月18日のことでした。彼が隣人の女性と散歩に出かけたと突然アウグステが言い出したのです。
この全く理由のない言い草が、夫が最初に気付いた“異変”でした。この時点からアウグステは、夫とその女性に対して非常な不信感を抱くようになりました。
その直後に夫は、彼女の記憶力が低下したのに気がつきました。2カ月後の5月に、彼女は食事の用意をしている最中に大きな失敗を初めて体験して、落ち着きなく目的もなく部屋の中をあちこち動き回るようになりました。
そして彼女は、家事をおろそかにするようになります。彼女の症状は悪くなる一方で、家にやって来る荷馬車の御者が自分をどうにかしたいのだ、と言い張るようになっていきました。
アウグステほどではありませんが、思えば、ねえちゃも、これに似かよった“異変”が、短期間の間にあれこれ起こってきたように思われます。
2018年10月23日
2018年10月22日
7カ月
きょうの夜、半月ぶりにねえちゃの家を訪れました。釣瓶落としに日が暮れて、近くの田んぼも稲刈りはすっかり終わっていました。
郵便受けには、生命保険会社やかんぽ、地震保険などの控除証明書が入っていたくらいで、これといった手紙はありませんでした。
断っておいたのにときどき間違えて入っていることがしばしばあった新聞も、投函されることが無くなって来ました。ちらしも減ってきたように思います。
固定電話の留守番電話も、着信履歴も留守にしておいたあいだ何もありませんでした。
もちろん家の中には思い出の詰まったものが、まだいっぱい残っていますが、家を出て7カ月、ねえちゃにとって、生活上も、気持ちのうえでも、グループホームが“わが家”になってきています。
もちろん家の中には思い出の詰まったものが、まだいっぱい残っていますが、家を出て7カ月、ねえちゃにとって、生活上も、気持ちのうえでも、グループホームが“わが家”になってきています。
2018年10月21日
カルテ
後に、アルツハイマー病と診断された最初の患者ということになるアウグステのカルテは、次のようになっていました。
カルテ番号:7139
姓:D、旧姓H
名:アウグステ
出生地:カッセル
郷里:プロイセン
現住所:フランクフルト・アム・マイン、メールフェルダー・ラント通り
生年月日:1950年5月16日
家族状況:既婚
宗教:キリスト教改革派
職業:鉄道書記官の妻
姓:D、旧姓H
名:アウグステ
出生地:カッセル
郷里:プロイセン
現住所:フランクフルト・アム・マイン、メールフェルダー・ラント通り
生年月日:1950年5月16日
家族状況:既婚
宗教:キリスト教改革派
職業:鉄道書記官の妻
病型は「動脈硬化性脳萎縮」とされていましたが、記入に際しては疑問符が付されていたといいます。
当時、アルツハイマーは、脳血管壁の肥厚など動脈硬化性の変性が老年性の脳萎縮を招き、これによって老年痴呆が起こると考えていました。
ところが、アウグステのような初老期の50歳から60歳の間に、このような変化が起こるのだろうか、という疑問を抱いていたのです。
実際、数年前に診察したアウグストと似た患者の剖検や脳組織の検査では、脳の神経細胞の委縮は明白でしたが、動脈硬化性の血管病変はごく軽度に過ぎませんでした。
2018年10月20日
悪く思わないで
1901年12月初旬のこと、アルツハイマーがアウグステの部屋に入ったとき、彼女は不信感を抱いているように見えました。
会話の間ずっと、彼女は泣き出しそうな声を出し、答えるのに時間がかかりました。
「先生は私のことを悪く言っているでしょう?」
「どうして?」
「私たちにまったく借金がなかったと思うけど、分からないわ。ただちょっと興奮しているだけなの。私のことを悪く思わないでくださいね」。
また、アウグステが悲嘆にくれながらうろつきまわり、他の患者の顔につかみかかろうとした際にも、やってきた当直医に「ああ、ごめんなさい、先生」とあやまったうえで、「私のことを悪く思わないでくださいね」。
彼女は、何を悪く思わないで欲しいのかという質問には答えません。隔離され、個室にある寝具をごそごそいじくりまわしているときにも、自分のほうを見た医師に「先生、私のことを悪く思わないでくださいね」といいました。
アウグステは興奮してくると、なぜかしばしば、このように「私のことを悪く思わないでくださいね」という言葉を繰り返したといいます。
2018年10月19日
ここはどこ
初診から4日後の1901年11月30日、アウグステはたびたび病院のホールへ行って、他の患者の顔をつかんだり、叩いたりしました。
なぜ彼女がそうするのか、誰もわかりませんでした。彼女は隔離され、アルツハイマーは惑わされずに診察を続けました。
「気分はどうですか?」
「ここしばらくとても良かったです」
「ここはどこですか?」
「ここでもどこでも、ここでも今、私のことを悪く思わないでくださいね」
「ここはどこですか」
「そこに私たちはまだ住むと思います」
「あなたのベッドはどこですか?」 「どこになきゃいけないんですか」
「昨晩よく眠れましたか?」
「ええ、とても」……
この日、アウグステはずっと奇妙な振る舞いを続けました。そして彼女はアルツハイマーに「ここは先生の来るようなところではないのです」と、部屋かだ出ていくように指図しました。
そうかと思うと、彼女はまた、アルツハイマーを客人のように迎えて「どうぞ、椅子に掛けてください。今まで時間がなかったんです」とあいさつしました。
その後でまた、彼を隔離室から押し出し、小さな子どものように部屋の外に向かって大声で泣き叫びましました。
なぜ彼女がそうするのか、誰もわかりませんでした。彼女は隔離され、アルツハイマーは惑わされずに診察を続けました。
「気分はどうですか?」
「ここしばらくとても良かったです」
「ここはどこですか?」
「ここでもどこでも、ここでも今、私のことを悪く思わないでくださいね」
「ここはどこですか」
「そこに私たちはまだ住むと思います」
「あなたのベッドはどこですか?」 「どこになきゃいけないんですか」
「昨晩よく眠れましたか?」
「ええ、とても」……
この日、アウグステはずっと奇妙な振る舞いを続けました。そして彼女はアルツハイマーに「ここは先生の来るようなところではないのです」と、部屋かだ出ていくように指図しました。
そうかと思うと、彼女はまた、アルツハイマーを客人のように迎えて「どうぞ、椅子に掛けてください。今まで時間がなかったんです」とあいさつしました。
その後でまた、彼を隔離室から押し出し、小さな子どものように部屋の外に向かって大声で泣き叫びましました。
2018年10月18日
こんなじゃないのに
アルツハイマーは、アウグステの前に、歯ブラシ、パン、スプーン、ブラシ、コップ、ナイフ、フォーク、皿、財布、硬貨、葉巻、鍵などの物を並べて、目をつむって手触りで言い当てさせました。
彼女は苦もなくこれらを言い当てました。ただ、ブリキのコップをティー・スプーンのついたミルク・ピッチャーと間違えてしまいましたが、目を開けるとすぐコップと言い直しました。
書くことは相変わらずでした。「Frau Auguste D」と書くように言われると、「Frau」まで書いて後はまた忘れてしまいました。何回も繰り返して言って、やっと書き取ることができました。
書いているあいだ、彼女は「本当はこんなじゃないのに」と繰り返したといいます。ねえちゃもそうですが、本来の自分ではないという自覚はあったことになります。
書いているあいだ、彼女は「本当はこんなじゃないのに」と繰り返したといいます。ねえちゃもそうですが、本来の自分ではないという自覚はあったことになります。
また、読む方は、ある行から別の行に飛ばしてしまったり、ある行を5回も読んでしまったり、読んでいる内容を理解していないようだったそうです。
2018年10月17日
隔離室
アウグステ・データーは、非常に静かな病院の隔離室に入れられました。
初診から3日後の1901年11月29日、アルツハイマーがそこへ入って行くと、彼女はベッドに横になってボーッとしていました。
――ご機嫌はいかがですか?
「いつもといっしょです。いったい誰が私をここへ連れてきたんですか?」
――ここはどこですか?
「さしあたっていま言ったようにお金がないんです。自分でも分からないわ、まったく分からないの、何ていうことなんでしょう、どうすりゃいいの?」
――お名前は?
「D・アウグステ夫人!」
――いつお生まれですか?
「1800え―と…」
――何年に生まれましたか?
「今年、いや去年」
――何年生まれですか?
「1800…分からない」。
きのう見たように実際には、アウグステは1850年5月16日生まれでした。ねえちゃとのやり取りとどこか似たところがあるように思われました。
きのう見たように実際には、アウグステは1850年5月16日生まれでした。ねえちゃとのやり取りとどこか似たところがあるように思われました。
2018年10月16日
アウグステ
フランクフルト・アム・マインの市立精神病院で医長をしていたアロイス・アルツハイマーが、初めてアウグステ・データー (Auguste Deter) の診察をしたのは1901年11月26日のことでした。
昼食にアウグステはカリフラワーと豚肉を食べていました。しかし、アルツハイマーが「何を食べていますか?」と聞くと、「ほうれん草」と言って彼女は肉を噛んでいます。
「今何を食べていますか?」と聞くと、「初めにじゃがいも、それから西洋ワサビを食べます」。
もう一度いくつかの物を見せてみましたが、アウグステはしばらくするともう何を見たのか覚えていません。
アルツハイマーが「ここに『Frau Auguste D』と書いてください」というと、「Frau」まで書いているうちに続きを忘れてしまいました。一語一語区切って言えばその通り書くことができましたが、「Auguste」は「Auguse」になってしまっていました。また、一旦捉われた考えに病的に執着する傾向も見られました。
名前を書いている間に忘れてしまう患者は、医師としての経歴の中でこれまで彼が経験したことのないものでした。アルツハイマーはこのとき、彼女の状態を「健忘性書字障害」と診断しています。
アウグステは、鉄道書記官の妻で、1850年5月16日の生まれ。ですから、このときまだ51歳だったことになります。
ねえちゃは、自分の名前を書いている間に忘れるということはいまのところないので、この障害については、このときのアウグステのほうが進行していたと考えられます。
2018年10月15日
アロイス・アルツハイマー
このブログの投稿も、いつの間にか1000回近くになりました。もともと、認知症に悩む“ねえちゃ”について家族の連絡用に作ったものですが、最近はねえちゃの周辺に関わることだけでなく、認知症や脳の研究の現状や、アルツハイマーという医師についての興味もふくらんできています。
これからは、こうしたやや遠くにあるサイエンスの話題もおり交ぜて、少し広い視野に立って“ねえちゃ”の病気を根気よく眺めてみたいと思っています。なんとも地味なブログですが、気が向いたときにでもお立ち寄りいただければ幸いです。
そもそも、ねえちゃが罹っているアルツハイマー病は、アロイジウス・"アロイス"・アルツハイマー(Aloysius "Alois" Alzheimer、1864-1915)=写真、wiki=とうドイツの医学者の名前に拠っています。
彼は、自身が診断したアウグステ・データー (Auguste Deter)という嫉妬妄想・記憶力低下などを訴える女性患者の症例を、1906年に南西ドイツ精神医学会で発表しました。これが後に、「アルツハイマー病」と呼ばれることになったのです。
アルツハイマーは、1912年に精神科の大学教授に就任しましたが、3年後の1915年12月に、大学へ向かう途中の列車内で体調を崩し、間もなく心疾患のため亡くなりました。
2018年10月14日
落差
ねえちゃの電話はこのところずっと、毎日、寝る前に1回と安定していたのですが、きのう、きょうと夜2回ずつ、さらに、きょうは朝早くにも1回掛かって来て起こされました。
夜は「これから寝るの」「何か困ったことない?」「何にもない。おやすみ」と、落ち着いた口調でスムーズに話していたかと思うと、30分もしないうちに「おばあさん、どこに居るんだろ?」と、何が何だか分からなくて困っている切羽詰った様子で再び掛けてきます。
グループホーム生活記録の通信欄にも、時々、自宅~入所までの経緯を忘れてしまい「どうしてこちらでお世話になってるんでしたっけ?思い出せなくて」等の発言がある、との記載があります。
いまに始まったことではないものの、いつも、この30分も経たない間の「落差」には驚かされます。が、ホームの職員のかたにも、私たちに対しても、ちゃんと説明すると納得して次第に興奮は止んで穏やかになっていくのは救いです。
2018年10月13日
カップ麺
ねえちゃが自宅で暮らしていたときは、1週間分の食料品は、私が生協とワタミの宅食へ注文して賄っていました。
「たまにはカップ麺はどう?」と聞くと、「じゃあ、わかめラーメンかな」というので、何個か注文したりしていたのですが、けっきょく作って食べることはなく、私が代わって、というのが常でした。
カップ麺をどうやって作るのかも忘れてしまったのか。カップ麺を作ることさえ億劫になって、食べてみる気力も失せてしまっていたのか。
先月、グループホームで台所の大掃除をしたため、お昼がカップ麺になったことがあったそうです。
そのとき、ねえちゃは「緑のたぬきそば」を選んで完食、「久しぶりで美味しかったよ」と喜んでいたそうです。ホームでは、カップ麺の楽しみも味わいつつあるようです。
2018年10月12日
2018年10月11日
判断
私たちが何かを判断するとき、記憶を頼りにすることがよくあります。「あのときはこうしたな」と、過去の同じような状況を思い出し、それと現在とを照らし合わせて判断するのです。
ところが認知症になると、現在の状況と似たような過去の記憶を探し出すことができず、たとえば「今日は寒いから暖かいうどんがいい」とか、記憶を頼りに判断することが困難になるそうです。
ですから認知症の人は、いろんなモノの中から「きょうは何を食べよう」と判断することができず、情報が多いことが、役立つどころか、頭の混乱を招くじゃまものでしか無くなってしまうことも少なくありません。
だから、食べるモノややるコトがある程度決まっていて、たいていは「AとBのどっちにする」といった程度の判断でやっていけるグループホームでの生活は、ねえちゃにとって、すごく楽で、安心していられるようです。
2018年10月10日
習慣化
認知症になっても、「習慣」として身についたことに関する記憶は、衰えにくいようです。
習慣化したことを無意識にしているときには、脳の奥深くにある基底核というところが、いつも同じ経路に沿って活動しているからなのだそうです。
そういえば、ねえちゃの場合も、午前中に血圧手帳、夕食後には日記、そして寝る前に私のところへ電話を掛けてくるのが習慣化しています。また「更衣・整容を習慣にできる」ことを目標の一つにしています。
ロンドン大学の研究によれば、普通の人が新しい習慣を身につけるために必要とされるのは、平均66日間なのだとか。
認知症の場合は多少ちがうのかもしれませんが、習慣化をうまくすることが生きる力につながる可能性は大いにありそうです。
2018年10月09日
2018年10月08日
2018年10月07日
神戸モデル
2年前にG7保健大臣会合が開催され、認知症対策を盛り込んだ「神戸宣言」が出されたのを踏まえて、神戸市では「認知症の人にやさしいまちづくり条例」を制定し、今年4月から施行されています。
さらに同市では、認知症の早期受診を推進するための診断助成制度、認知症の人が火災を起こしたり外出時に事故に遭った際の救済制度などの創設を内容とする、全国に先駆けた“神戸モデル”を実現しようとしているのだとか。
たとえば、認知症の人が火災を起こしたり事故に遭った場合には見舞金が支給されます。外出中の事故で死亡した場合3000万円、入院すると最高10万円、持ち物が壊れたときには最高10万円、火事の際には最高40万円などの案も出ているそうです。
これらの財源をどうするのかというと、神戸市は市民税均等割に1人あたり年間400円を上乗せする増税案を検討しているそうで、市民らから意見を募っています。
認知症の人が絡んだ交通事故や火災をしばしば耳にする昨今、神戸モデルのような試みが必要な時代に来ているなという気もしてきます。
2018年10月06日
台風25号
9月、10月の台風で、ともに数日間にわたる停電に見舞われた八ケ岳山麓のペンションなどで、台風25号の接近に備える動きが目立っている、というニュースが流れていました。
停電は、木が折れたり倒れたりして、電線を切断したのが主因とみられています。台風25号で再び木が倒れて停電になったり、住宅に当たりしたらまたまた大変です。
このところ台風続きで何が起こるか分からないので、グループホームへ入って留守状態にあるねえちゃの家についても、物干し竿やバケツ、箒など、風で飛ばされそうなものはできる限り家の中に取り込んでは置きました。
さて、きょうの午後8時半ごろ、いつものようにねえちゃから電話がかかって来たので「雨や風はどう?」と聞くと、「外へ出ないからよくわからない。おやすみ~」と、ややノー天気に言ってました。
2018年10月05日
お小遣い
ねえちゃのグループホームに入居している人たちは、ふだん現金を持つことはできません。
何か買う必要があるときやどこかへ出かけるときなどのお金は、ホームに5000円くらいずつ預かってもらっている「お小遣い」でまかなっています。
でも、食事をはじめ、たいていのことはホームの中で済むので、お小遣いを使うことはそんなにありません。
髪のカットもホームの向かいにある理髪店で、きれいに、安価でやってもらえています。家にいるときは年がら年中パジャマでしたが、ホームへ入ってからは持っている服をそれなりに着こなしているようです。
「何か欲しいものとか、行きたいところとかないの」とねえちゃに聞いても、ホームでみんなと楽しくやっていられれば十分だと、とても幸せそうに答えます。
2018年10月04日
2018年10月03日
2018年10月02日
介護保険給付費支給決定通知書
きょう、久しぶりにねえちゃの長野の自宅を訪れました。ざっと見たところ、台風でどこかが吹き飛ばされたり、といった被害は無さそうです。
郵便受けに「介護保険給付費支給決定通知書」なるものが入っていました。
公的介護保険を利用した際に、自己負担1割の合計の額が同じ月に一定の上限を超えたとき、この支給申請をすると「高額介護サービス費」として払い戻されます。
このあいだ申請しておいた指定の預金口座に、「振込の手続きをしましたので通知します」とありました。
さらに、「この決定について不服があるときは、この通知を受け取った日の翌日から起算して3か月以内に長野県介護保険審査会に対して審査請求をすることができます」等々、いかにもお役所の文書らしい但し書きも付いていました。
2018年10月01日
ナシ
ねえちゃの甥からナシが届いたという旨の連絡を、きょうの夜、グループホームの責任者のかたからいただきました。
午後8時ごろ、ねえちゃから電話がかかって来たので、「ナシ送ってくれたんだって」と聞いてみると、やはりすっかり忘れていました。
ただ「送ってもらったとすれば、お礼の電話はしたと思う」と、その点はかなり自信があるようです。
いただいたかどうかよりも、お礼をしたかどうかが気になってならない。ねえちゃらしい律儀さは、認知症になっても変わりません。
「きょうのいちばんの出来事なんだから、ナシのこと、いますぐ日記に書いとくんだよ」というと、「わかった。おやすみ」と電話を切りました。が、果たして書いたかどうか?