Aokijima

認知症と生きる「ねえちゃ」の近況と、アルツハイマー病に関する記録です

剣山

ねえちゃは朝から、きのういただいた小梅をテーブルの上に広げて、梅漬けの準備をはじめました。

最初は、シソで漬けるつもりでいたのですが、「漬けかた忘れちゃって」と姉のところに電話をしたら「らっきょう酢で漬けたほうがいい」というアドバイスをもらったようで、そっちに方針転換しました。

そして、「剣山、どこへいったけ」と、家の中を探し回って見つけてきました。「剣山」と言っているのは、花を生けるときに使う、針をたくさん束ねた剣山留めのことです。

花が動かないように支える花留めは、昔は穴の開いた金属板を用いた七宝留めが一般的だったようですが、明治時代に入って剣山留めが登場し、広く普及したそうです。

けれど、いまのねえちゃにとっての剣山は、花を生けるためではなく、梅漬けに欠かせない小道具なのです。

洗って、ヘタのところを取った後、梅の実を剣山の上でゴロゴロとまんべんなく転がして、表面に細かくトゲトゲを刺していきます。

すると、「酢が染み込みやすくなって、おいしく漬けあがる」のだそうです。慣れた手つきで、針の山をゴロゴロゴロゴロ。長年の経験から生みだされた、ねえちゃ自慢のワザです。

小梅

最近はたいていのものが、年中いつでも食べられるようになってきましたが、こと梅の実に関しては、5~6月のこの時期くらいしか手に入らないように思います。

  梅を干す甕に紅の海はあり(山口青邨)  

といったように、俳句でも梅漬や梅干は夏の季語とされています。

そんな旬の食である小梅が、きょう、ねえちゃの甥から送られて来ました。

このところ、これといった料理をしなくなったねえちゃですが、梅だけは毎年漬けつづけてきています。

「せっかく送ってもらったのらから」と、今年もさっそく甕の中に移し替えて、赤シソの葉といっしょに漬けて「しそ梅」にする準備にかかりました。

江戸時代にはもう、シソで赤く着色される梅干しが作られれようになっていたとか。

伝統的な方法で作られた梅干は、土蔵などできちんと保管していると、腐らず、100年前に作られたものでも食べられるそうです。

梅には、消化吸収を良くするほか、血糖値の上昇を抑えたり肝機能を高めたりする効果もあるとされています。

最近ちょっぴりボケ気味で、何もすることがないのが悩みのねえちゃにとって梅漬けは、頭の体操にための、ほどよい仕事にもなりそうです。

祝!リオ五輪出場

女子バレーボールの世界最終予選。日本は2-3でイタリアに敗れたものの、2セットを奪って、リオデジャネイロ五輪出場が決まりました。

きょうの夜、ねえちゃは、めずらしくテレビにくぎ付けになって、「こっちまで緊張してしまう」と声をあげながら、この試合を観ていました。

中学生のとき、9人制バレーの選手だったというねえちゃ。「背は低かったのに前衛のセンターに抜擢されて、地域の試合では強かったのよ」とのことです。

ねえちゃにとって女子バレーというと、「東洋の魔女」の1964年東京オリンピックや、エースアタッカー白井貴子選手の「ひかり攻撃」などで全試合「失セット0」の圧倒的な優勝を果たした1976年のモントリオールなど、日本の黄金期のことが強く印象にあるようです。

ですから、オリンピックに行けるかどうかで肝を冷やしたり、予選の試合で負けることがあるなどということが、なんとなく不思議なでならないようで、「いろんな強い国が出てきて、時代は変わっているんだ」とテレビを見ながら漏らしていました。

ともかくも、祝!オリンピック出場。これで、リオ五輪のバレーボールのテレビ観戦という、ねえちゃの楽しみもできました。

首掛けケース

ねえちゃは私といっしょに歯医者通いをつづけていますが、予約した日になると相変わらず、診察券がない、保険証がない、と右往左往するのが日課になっています。

先週も、歯科医院に出かける直前に、家で診察券や保険証がないとひと騒ぎ。歯科医院に行く途中の道端でまた、愛用のリュックサックに入れたはずの診察券がどこかへいっちゃったと、財布などリュックの中を引っ掻き回すことになりました。

こういうのを何とかしようと、首にかける名札入れのピンク色のケースを買ってきました。病院などに出かけるときには、その日に必要なものを入れて首にかけて行くようにしようと。

きょう、さっそく診察券の入ったそのピンクのケースを首にぶらさげて、いつもの歯科医院へ行きました。少しは、役に立ちそうな感じがしています。

ところで先週、入れ歯が入ったねえちゃですが、歯を留めるワイヤー役の金属などにかなり違和感があったようです。でも、きょう歯医者さんに調節してもらって「スッキリした」そうです。

次の目標

ねえちゃの次の目標は、6月4日に実家で行われる義姉の一周忌に出席することです。

あと2週間。いつもだと「こんなにボケてて行けるだろうか」と不安になるころですが、「今度だけはどうしても行かなくては」と、めずらしく随分と前向きです。

というのも、「ひょっとすると、あの家へ行くのもこれが最後になるかもしれない」と思っているからです。

義姉が亡くなったことで、ねえちゃの実家を“棲みか”としている人が居なくなってしまいました。

実家は、交通が不便な山の中にポツンとあります。高齢になり、車の運転もしないねえちゃには「懐かしいけど、とてもじゃないけど、私が戻って暮らすわけにもいかない」のです。

「細々と農業をやって食べていける時代じゃないし、たとえ家が無くなっちゃってもしょうがないよね。これからあの家をどうするのか、ちゃんと聞いてこないと」と言います。

往復の高速バスや旅館の予約も取りました。今度の法事には、自分を育ててくれた実家の元住人として、「行く先を見とどけなければ」という義務感のようなものを、寂しさと同時に感じているようです。

 

旭山城

47年前、ねえちゃの一家が長野市に来て最初に住んだのは、市の西部、西長野地区の借家でした。スーパーやいろんなお店、小・中学校も近くにあって、とても便利で過ごしやすい街でした。

西長野には、すぐそばに、旭山(標高785m)がそびえ立っています。山頂の近くまで、しましば遊びに行ったものです。

川中島合戦のころ、ここには旭山城=写真=があって、上杉・武田両軍で激しい争奪戦が繰り広げられました。

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旭山城がいつ築城されたかはよく分かっていないようですが、天文24(1555)年、第2次川中島の戦いで、善光寺別当の栗田寛久が武田信玄と通じて、鉄砲300、弓800、兵3000の支援を受けて旭山城に籠もったとされています。

上杉謙信は、善光寺の東の横山城に陣を構え、付城として裾花川対岸の山上に葛山城を築きました。

数カ月間対陣した後、今川義元の仲介で和議が成立します。和議の条件の一つに旭山城の破壊が盛り込まれたとされています。

第3次川中島の戦いでは、弘治3(1557)年に武田軍が葛山城を襲って落城させると、雪解けを待って謙信も出陣して旭山城を再建、守兵を置きます。

永禄4(1561)年の第4次合戦では、旭山を駆け下りた守兵の援護で、武田軍の追撃を振り切ったと伝えられているそうです。

妻女山

永禄4年(1561)年8月、第4次川中島の戦いで上杉謙信が1万3000人の軍を率いて陣営を設けたといわれる「妻女山」(長野市松代町清野)に登ると、ねえちゃの住んでいる青木島を含め、川中島平一帯を見渡すことができます。

山といっても、実際は標高差100メートルほどの高台です。妻女山という名前は、上杉軍将兵が望郷の念を抱いて、遠く離れた郷里に残して来た「妻女を偲んで涙した」と江戸時代中期になってから芝居、浄瑠璃、講談などで広まったとか。

見晴らしが良く、武田方の海津城の動静をうかがうには絶好の場所だったようです。山の西側には、謙信が槍の尻で地面を突いて泉ができたという伝説をもつ「謙信の槍尻之泉(やりじりのいずみ)」もあります。

川中島合戦ではよく知られているように、謙信は山上から海津城に立ちのぼる夥しい炊煙を見て武田方の攻撃を知り、夜陰に紛れて山を下り、雨宮の渡しから千曲川を渡って敵の裏をかいたと伝えられます。

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ただし現在「妻女山」とされて展望台などがある場所は、実際は斎場山の尾根上の頂(赤坂山)=写真、wiki=で、謙信配下の殿(しんがり)部隊甘粕近江守景持が陣を敷いたところと考えられています。

地元では、本来の妻女山山頂は、この赤坂山から南西に登った斎場山古墳のあたりとされています。

山の中央の平地は陣場平、その西北隅は謙信が本陣を設けた床几塚(しょうぎづか)、さらにその南西は伏兵千人を潜ませた千人窪(せんにんくぼ)とも呼ばれています。

『甲陽軍鑑』では、上杉軍が陣を設けた場所を「西條山」(さいじょうざん)とされます。

真田氏史書『真武内伝』では、「妻女山を西條山と書すは誤也、山も異也」と指摘していますが、江戸時代の地図も「西條山」との記載が多く、唱歌「川中島」の歌いだしも「西条山は霧ふかし」になっています。

西條山(あるいは西条山)は、赤坂山の南にある別の山で、川中島の戦い当時は海津城将が上杉軍来襲を甲斐に狼煙で急報した烽火台があったところのようです。

「天と地と」

  林檎咲く川中島に風もなし

私の一句です。ねえちゃが暮らしている青木島の周辺も、リンゴの花が咲きみだれています。

もともと南信(長野県南部)出身のねえちゃが、夫の仕事の都合で長野市に暮らすようになったのは昭和44(1969)年のことです。

信州では、いま「真田丸」で沸いていますが、ねえちゃが長野市で暮らすようになった47年前もNHKの大河ドラマが大きな話題を呼んでいました。

長野市の川中島が舞台となった「天と地と」が、一年間にわたって放送されたからです。大河ドラマ初のカラー放送というおまけ付きでした。

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石坂浩二の上杉謙信と高橋幸治の武田信玄が、川中島の戦いの、例の一騎打ちを演じました。貧乏なねえちゃの家のテレビはまだ「白黒」でしたが、地元が舞台ということもあって毎週、家族で観ていました。

ねえちゃがいま住んでいるのは、そんな川中島合戦の中心地、八幡原古戦場まで車で5分くらいのところです。

特に歴史に興味を持っているようには思われないねえちゃですが、歴史に残る古戦場とリンゴの里に暮らしていることを、誇りに思っているようです。

青木島

何回つづくかな、と思ってはじめたこのブログですが、いつの間にかもう100回近くになりました。このあたりで、ちょっとだけ装いを変えることにしました。

ねえちゃの住んでいるところは、むかし「青木島村」と呼ばれていました。もともと、犀川の南に開けた肥沃な堆積地を利用した、のどかな農村地帯でした。

樹木がよく茂る微高地で、「アオは青海原のように、あるいは鏡のような平らな水面とも解され、犀川の平坦地の流れから」村の名が付いた、といわれています。

これまでも触れてきたように、いまから500年近く前、甲斐(山梨県)の武田信玄と越後(新潟県)の上杉謙信がぶつかった、有名な川中島の戦いの舞台となったところでもあります。

また、北国街道、善光寺街道、松代街道などが通る青木島は、古くから交通の要衝として栄えてきました。犀川には渡し場が設けられ、船3隻、水主15人、船頭1人が松代藩によって配備されていたそうです。

渡し船は川を横断して綱を張り、船頭はその綱を手繰って客を渡しました。江戸中期には渡し賃が1瀬10文、2瀬30文、3瀬39文と定められ、番屋で船賃を払って往来していたといわれています。

これからは間口を少し広げて、ねえちゃの暮らしぶりだけでなく、川中島合戦など土地に刻まれた歴史や風土にも広く目を向けて書いていきたいと思います。ひきつづきお付きあいいただければ幸いです。

フィットネス

ねえちゃは、中肉中背、とくに太ってるわけでも、痩せすぎ、というわけでもありません。

むかし母乳が出なかったそうで、「太れば出るようになる」とう話を聞いて、無理やり食べて、かなり太めだった時期もありました。

でも、けっきょく「太っても母乳は出るようにならなかった」そうで、過食をやめて仕事に追われるようになったら自然に痩せていったようです。

年を取って、ひざの痛みが気になったことがありました。でも、何度かお医者に通ったら、治ってしまいました。

何もやることがないというので気晴らしにもなればと、2~3年前、中高年女性に人気の「カーブス」というフィットネスクラブに通っていたことがあります。

ステップボードを上り下りしたり、筋力トレーニング、ストレッチをしたり、1回30分間、楽しみながらマイペースで運動ができます。

予約がいらず、好きな時間に行けばいいので、買い物のついでに立ち寄ったりしていたのですが、いつの間にか足が遠のいてしまいました。

「痩せたい」とか、「健康になりたい」とか、やはり本人にモチベーションが無いことには、つづかないのでしょう。

 

松井潤
matsuijunta@gmail.com
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