2018年11月25日

こん こん こん

さらに、アルツハイマーの症例の言語障害についてクレペリンの教科書によると、言語の書写テストでは、書き取ってみると甚だうまくいかないが、次のような、速かな、律動的に並んだ言葉の断片の所見が得られた、とされています。

「わた した こん こん こん こん こんな そこ そこ そこ あり ほら この こん こん こん らあ だれか やった へん こん へん こん こん こん こんな ふうに なる こん こん だん だんな だい だい やる ほん へん だん やあ やる わる わる わる ……」

そして、最終的に患者は全く話さなくなってしまう。興奮した時に、いくつかの了解可能な言葉や意味のない音節群をやっというだけとなる。字を書くことは全く不可能となる。と同時に、極めて高度な痴呆が発生してくる、のです。

患者は、向きあえば目をあげたり、笑みをうかべたりすることはあるものの、言葉や顔の表情を全く理解することができず、近親者が認知できず、直接身体をつかまえられると怒りの身振りをし、せかせかと、粘着的音節でどなるが、その時には、まだ理解できるような悪口がまじる。

彼らは自力で食事を取ることができず、その他の身の回りのこともできず、手に与えたものを何でも口に入れてしまい、目の前に出された物を何でもしゃぶる。時に不穏となったり、怒りっぽくなったりすることもある、とクレペリンの教科書には記されています。

ところで、日曜日のきょうは、朝、昼、夜と、ねえちゃから「いま、ごはん終わってねえ……」と、にこやかな声で3回電話がかかってきました。まだ、私のことは分かり、日記を書くこともできているといいます。アルツハイマー病といってもねえちゃはまだまだ“新参”の部類なのでしょう。


2018年11月24日

言語障害

アルツハイマーが記載した症例について、クレペリンは「とりわけ言語が非常に高度に障害される」と特徴づけています。

まだいくつかの言葉や文章を理解できるように話せるが、全く意味のないたわごとを続けることが多い。それは、進行麻痺患者の語間代(語尾の繰り返し)のように、抑揚のない同じ音節が何度も拍子をとって繰り返される、というのです。

たとえば、次の書き取りを見れば、それが理解できるとしています。

「だめよ、だめ、自分でやって、まずい、まずい、やつら、やつらが、あれみんな、みんな、ぐしゃ、ぐしゃぐしゃに、しちゃって、やって、やって、水みんな、あいついった、やれ、やれ、それだめ、こない、おまえ、やれ、それ、どうか、かあさん、かあさん、こども、こども、かみさま、おんあるじ、いまやっちゃ、いけない、いけない、こころ、ころ、ころ、おしょう、しょうがつ……」

この文章の、少なくともいくつかの言葉や、ところどころの言葉の結合はまだ認識できるところがある。しかし、そのほか、このたわごとは粘着したばらばらの音節の連続となり、全く了解できないものとなる、というのです。


2018年11月23日

クレペリンの記述

それでは、エミール・クレペリンは、後に「アルツハイマー病」と呼ばれることになる症例を教科書にどのように記したのでしょう。

『精神医学――学生と教師のための教科書(Psychiatrie. Ein Lehrbuch für Studierende und Ärzte)第8版』第2巻(1910年刊)の338-632ページ(Ⅵ麻痺性痴呆、Ⅶ老年性精神病と初老期精神病)の『老年性精神疾患』(伊達徹訳、みすず書房)では、「アルツハイマーの特殊群」として次のように訳されています。

「アルツハイマーは、非常に重篤な細胞変化を伴う、特殊な一群の症例を記載している。それは、非常に重篤な精神衰憊が徐々に発展してくるが、脳器質疾患の現象は漠然としているという例である。

数年のうちに精神的に退行し、記憶力が低下し、思考が貧困化し、混乱し、不明瞭となり、勝手がわからず、人物を間違え、持ち物を誰にでも与えてしまう。

後にいくらか不穏状態が発展してきて、患者は多弁となり、一人でぶつぶつ咳き、歌い、笑い、走り回り、いじりまわり、こすり、つまむといった動作を示し、不潔となる。

失象徴性および失行性障害のけはいが多く見られ、患者は要求や身振りを全く理解せず、物や絵を認知できず、まとまった行動をやれず、模倣できず、針で突かれると非常に不快に感じられるにもかかわらず、突くと脅しても全く防御反応を示さない」。

クレペリンは当時にあってこれほどまでに、というほどみごとに歴史的な記載をしたのでした。


2018年11月22日

マッチ箱で書く

きのう紹介したアルツハイマーの診察から1年後の1907年10月8日には、患者のヨハンは、何か書くように言われると鉛筆を取らず、マッチ箱を手に取ってそれで書こうとするようになっていました。

さらに、ヨハンは1908年6月12日には、庭に出て大汗をかいているにもかかわらず、足早に円を描いて歩いていました。その際、ひっきりなしに彼の上着の裾を手に巻き付けて、ばらばらにならないように一生懸命にまとめていたといいます。

また、同じことをベッドでは毛布で行っていたそうです。針でつついたり、足の裏をくすぐっても長いこと反応しませんでしたが、最後には医師に殴りかかり、それ以後ひとことも口を聞かなくなりました。

そして1910年10月3日、日雇い労働者のヨハン・Fは、59歳で亡くなりました。死因は肺炎とされていますが、実質的には初老期痴呆、すなわちアルツハイマー病が原因と考えられています。

アルツハイマーは、1911年にこの症例について詳しく発表しています。

一方、クレペリンは、教科書執筆と同時進行していたヨハンの実地の臨床例も用いて、やがて医学史上最も有名な病気の一つとなるアルツハイマー病を世に送り出す記載をしたのです。


2018年11月21日

ヨハン

さて、再びクレペリンの話に戻りますが、彼が第8版の精神医学教科書のテキストを書く際、50歳代で初老期痴呆になった日雇い労務者のヨハン・Fのことを頭に思い浮かべていました。

クレペリンは「アルツハイマー病」が記載された教科書が出版される直前の1910年5月31日に、この患者の最後の回診をしています。そして同年10月3日、この日雇い労働者は亡くなりました。

アルツハイマーはヨハンに対し、アウグステらと同じように丹念に診察を続けていました。1907年9月20日には、患者をベッドに横臥させて、次のような質問をしています。

「血は何色ですか?」「赤」。「雪は?」「白」。「牛乳は?」「おいしい」。「煤(すす)は?」―返事なし。

ヨハンは、10まで正しく数え、曜日と月も言えました。主の祈り(新約聖書マタイ伝6、9)は半分まで覚えていましたが、その後は言えませんでした。

「2×2は?」「4」。「2×3は?」「6」。「6×6は?」「6」。彼は、時計の時刻を読めたし、上着のボタンも間違わずにかけることができました。

タバコを口にくわえ、マッチをすってタバコに火をつけて吸いました。硬貨を手に取って裏表を丹念にチェックし「それは、それは、それを持っているよ、それ、それ」と言いました。

さらに、アルツハイマーの「子牛の足は何本ですか?」の質問には「4本」。「人間は?」「2本」。

「魚はどこに住んでいますか?」と問うと、「森の中の木の上?」。アルツハイマーは首を振りながら「森の中の木の上ですと……」。


2018年11月20日

運動会

ねえちゃの話がしばらくご無沙汰になっていましたが、平穏で楽しい日々を送っているようです。8時から8時半くらいの寝る前の時刻になると、私のところへ毎日必ず電話をくれます。

あれほど何もかも忘れてしまうのに、どうして電話だけは忘れないのか、不思議でなりません。

グループホームから送られてきた10月の生活記録の中に「運動会」の記載がありました。

棟を代表してしっかりと大きな声で「選手宣誓」をして、トイレットペーパーの芯送り、玉入れ、パン食い競争に参加たのだとか。

運動会の日の昼食は吉野家の牛丼で「美味しい、誰か買ってきてくれてのね」と喜んでいたそうです。老春を謳歌しているようです。


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2018年11月19日

アルツハイマーの特殊群

クレペリン(1856-1926)は、フロイトとならんで、近代精神医学の基礎を築いたと位置づけられるドイツの偉大な医学者です。

脳病理学の大家グッデンや実験心理学の創始者ブントに師事し、30歳でドルパート(現・タルトゥ)大学の精神科教授に就任。

1903年には、ミュンヘン大学教授ならびに王立ミュンヘン精神病院のトップとして招かれます。アルツハイマーも、クレペリンを助けてこの病院で働くことになったのです。

待望の精神医学教科書の第8版は、1909年2月に第1巻の「一般精神医学」が、1910年7月に第2巻の「臨床精神医学」が完成しました。

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クレペリンはこの第2巻の序文の最後に「特に私の期待を裏切らなかった長年の親愛なる同僚、アルツハイマー教授に心から感謝の意を表します」と記しています。

さらに、目次には「老年性痴呆」の項目には「アルツハイマーの特殊群」の名称が見られ、この章の624ページでは、アウグステなどの症例について「高度の細胞変性を伴った症例の特異な一群をアルツハイマーが記述した」としています。

この1910年の出版を機に、ねえちゃも苦しんでいる現代の難病「アルツハイマー病」が、一つの病気として把握されていくことになるのです。


2018年11月18日

クレペリンの教科書

アウグステら4人の症例が検討された論文「高齢者の臨床及び組織学的に特異な精神病について」が出版された1908年は、現代でも読み継がれている精神医学の古典的な教科書の改訂の時期と重なっていました。

アルツハイマーの上司であり、現代精神医学の基礎を築いたエミール・クレペリン(Emil Kraepelin)の主著である『精神医学――学生と教師のための教科書(Psychiatrie. Ein Lehrbuch für Studierende und Ärzte)』です。

教科書

この本は1883年に初版が出版されてから、1887年、1889年、1893年、1896年、1899年、1904年と改訂され、そろそろ新版を出す必要に迫られていたのです。

クレペリンは、精神科学の領域が拡大してきたのと、自身の業務の多忙さのため、第1巻の「一般精神医学」と第2巻の「臨床精神医学」に分冊して出版することにしました。

この教科書の第2巻「臨床精神医学」のほうに、いまや私たちの誰もが知っている「アルツハイマー病」という言葉が初めて登場することになるのです。


2018年11月17日

4症例

1907年に亡くなった60代の地方裁判所勤務の男性は、比較的早く痴呆の症状が現れ、異様な行動は徐々に悪化していきました。

彼は裁判所長と話して自分でも公判を行ったそうですが、大半は被告人に死刑を宣告し、そのうえ傍聴者を一人ずつ退席させていったといいます。

こうして、アルツハイマーが最初に注目したアウグステを筆頭に、60歳で記憶障害を呈した婦人、籠細工師の40代の男性、そしてきょう取り上げた地方裁判所勤務の男性と、「新たな疾患」としてえ発表できる4例を得ることができました。

これら4症例についてまとめた論文は、アルツハイマーが編集者を務める「精神病の病理解剖学に関連する大脳皮質の組織学的組織病理学的研究」シリーズの一巻として「高齢者の臨床及び組織学的に特異な精神病について」という題で出版されることになりました。

著者は同僚のガエタノ・ペルシーニ。論文では「アルツハイマー博士の指示に従って、臨床的病理解剖学的特徴を共有する四症例を診察した」としたうえで各症例が詳細に紹介され、「共通所見を確認したが、それは神経細胞線維の変化と特異な斑の形成で、両者とも四例全体で大体同じ大きさ、形で見出された」と要約されています。


2018年11月16日

籠細工師

1907年9月21日には、籠細工師をしている45歳の男性がアルツハイマーの病院に入院してきました。

彼は40歳から、記憶障害を主とする精神障害が徐々に出はじめ、その後、物品呼称障害、失見当識、高度の記憶障害を伴う痴呆へと発展していきました。

医師によれば、排尿が我慢できなくなって室内やズボンに失禁したり、「私はもう君たちを養うことができない。一番良いのは、少なくとも君たちが水入らずで暮らせるよう、私が水に飛び込むことだ」とわけのわからないことを言うこともあったそうです。

彼は簡単な計算問題も解くことができませんでした。「2×6は?」「14」。「3×6は?」「また書き取らなきゃ、どうしていいか分からない!」。

「ドイツ皇帝の名前は?」「思い出せない」。「バイエルンの摂政は誰?」「レオポルト(正解はマクシミリアン)」。

患者は、入院した翌年の1908年4月3日に亡くなりました。彼の脳も検査に出され、斑、神経原線維変化などが調べられました。


2018年11月15日

65歳の女性

アウグステの症例に関する「精神科医学会紀要」が出た1907年の3月9日、アルツハイマーは、5年前に記憶を喪失した65歳の女性を診察しています。

病院で彼女は、上機嫌で呆け、幼児のような言葉を繰り返しました。そして、正しい音節で単語や適当な複文を組み立てられませんでした。

自分の持ち物を指して「グーテレ(Gutele)、シェーネレ(schönele)」を繰り返し、さらに、たとえば「Taschentuch(ハンカチ)」の代わりに「Schnäuzer(口ひげ)」という単語を使い、いつも同じ「ムーテレ(Mutele)、マーメレ(Mamele)、ムーテレ(Mutele)、グーテレ(Gutele)」を繰り返しました。

そして彼女はときおり、変にピチャピチャ音を立てて食べる動作をし、医者に投げキスをしました。

2週間後の3月24日、彼女は死にました。アルツハイマーは剖検を指示し、検査で新しい染色法を用いるように勧めました。


2018年11月14日

論文

第37回南西ドイツ精神科医学会がテュービンゲンで開かれた1年後の1907年、同学会で行なわれたアルツハイマーの講演は、学会誌に発表されました。

「精神医学及び司法精神医学」の精神科医学会紀要の第二寄稿論文として掲載されたもので、タイトルは“大脳皮質の特異な疾患について”。ここには講演の全文が紹介されています。

論文

この論文は、出版された1907年にはまったく注目されませんでした。が、これから70年後、アルツハイマー病の症例が、フランクフルト市立精神病院で診療されたアウグステにさかのぼるとされる根拠となることになりました。

ところで、期待を持って臨んだ1906年の学会で理解を得ることができなかったアルツハイマーは、初老期痴呆のほかの症例をより包括的に発表しようと決意しました。

そして、アウグステのまとめを同僚に任せて、新しく入院してくる患者に注意を向けるようになりました。そして1907年3月9日、新たな患者と出会うのです。


2018年11月13日

カズノコ

一週間ぶりにねえちゃのグループホームを訪れました。特に変わったことはありませんが、同じことを繰り返して聞く間隔が、また短くなってきたなという感はなんとなくします。

いつの間にか、今年もお歳暮のシーズン。「今年は、お歳暮どうする?」と聞いても、ねえちゃにそれをどうどうこうすると判断をさせるのは、もはや困難です。

「特別にお世話になったご少数の人たちに、ちょっとだけ送っておこうか」というと、頷いています。

お歳暮のチラシを見せて「じゃあ何にする。サケとかいろいろあるけど?」と聞くと、「サケよりカズノコのほうが喜んでくれると思うな」。

どういういきさつからかは分かりませんが、ねえちゃの頭の中には「お歳暮はカズノコ」という思いが、かなりな長いあいだ離れずに存在しているようです。


harutoshura at 22:26|PermalinkComments(0)ねえちゃの近況 

2018年11月12日

意外な反応

アルツハイマーの歴史的な学会発表は、次のように締めくくられました。

「成書に記載されている以外にも、たくさんの精神疾患があることは疑う余地がありません。そのような中から、後日、組織学的検査により新たな疾患確認されることでしょう。

しかしその前に、教科書的な疾患群から、臨床的に個々の疾患を分離し、より明確に定義することもできるはずです。これをもって私の発表を終了させていただきます」。

学会で新たな発見や従来にない報告がなされると、質問が殺到したり歓声がわいたりするものですが、アルツハイマーに対する反応は意外なものでした。

終了とともに座長が質疑応答を求めましたが、誰からも発言はありませんでした。再度呼びかけても質問者はあらわれませんでした。

ふつう会場からの発言がないときには、なんらかの質問やコメントをするはずの座長も、黙っているだけ。

活発な討論に巻きこまれると思われていただけに、アルツハイマーは「今回はみんな理解できなかったのでは?」と不安にかられたようです。

「アルツハイマー先生、ご発表ありがとうございました。どうやら議論はないようですので」。


2018年11月11日

グリア

「次のスライドをどうぞ」。アルツハイマーの学会発表は続きました。

「大脳皮質全体に散らばって、特に表層に粟粒大の病変が多数認められ、これは特異物質の沈着と思われます。

四枚目のスライドをどうぞ。これら特異物質について少し説明を加えたいと思います。染色をしなくてもわかりますが、染色したほうが容易に確認できます。

グリアは大量の線維を形成し、その傍で多くのグリア細胞が大きな脂肪顆粒を含有しています。血管の増生は全くありません。しかし一部に血管内膜の肥厚が確認されます。

要するに、我々の眼前に特異な疾患があることは明白であります。近年この種の病態がかなり増えてることが報告されています。

この観察は、既存の疾患群の範疇に、理解する努力が省けるからといって臨床的に不明瞭な症例を組み込むべきではないということを示唆しています」。

アウグステ
*アウグステの斑(K&Uマウラー『アルツハイマー』から)

発表の中にでてくる「グリア」は、中枢神経の内部でニューロン(神経細胞)の間を埋めている細胞で、毛細血管とニューロンの物質移送などさまざまな役割をしています。

また「脂肪顆粒」は、組織破壊で壊れた産物のうち、脂肪成分をマクロファージ(体内の変性物質や細菌など異物を食べる“清掃屋”役の細胞)が貪食したもののことです。


2018年11月10日

標本

アルツハイマーの学会講演は、スライドでアウグステの脳の標本を示しながら、次第に詳細な説明へと入っていきました。

「剖検では肉眼で明らかな局所病変はないものの、脳が一様に委縮していました。脳血管に動脈硬化性変化が認められました。ビルショウスキー鍍銀染色標本では、神経細線維に顕著な変化が見られました。細胞内部に、まず若干の太くて強固な細線維が現れました」

ここで「ビルショウスキー鍍銀染色標本」というのは、格子線維や細網線維が銀の微粒子をよく吸着する性質を利用して組織切片に銀処理を施し、こうした線維を選択的に黒色に染め出す方法です。Bielschowskyが1904年に考案しました。

アルツ
*アウグステの神経細線維

「最初のスライドをお願いします」。アルツハイマーはつづけました。

「平行して走っている細線維にも同様に変化が現れ、徐々に密な束になりました。最後には核が消失し、細線維のからみあった束のみが、そこに以前神経細胞が存在したことを示しています。

この細線維は通常の物とは異なる染色法が必要なため、神経細線維の化学変化が起こっているに違いありません。細線維の変化は、未知の点が多い神経細胞内病的代謝産物の沈着と結び付いているようです」。

「次のスライドをお願いします。大脳皮質神経細胞の四分の一から三分の一は、前述の変化を示しています。多くの神経細胞は、特に表層で完全に消滅しています」。


2018年11月09日

確認ができたこと

アルツハイマーによる1906年11月の学会発表のつづきです。発表の中で彼は、アウグステの症例について次のようなことが確認ができたとしています。

①記憶力は最も強く障害され、物品呼称はだいたい正確だが、直後に、すべての名前を忘れてしまう。

②文章は、一行一行、一字ずつ区切って読み、アクセントは意味をなさない。個々の音節を何度も繰り返し書き、すぐに消してしまう。

③会話中にしばしば沈黙し、コップの代わりにミルク壷と言うように、錯誤的な表現を用いる。ある種の質問は明らかに理解できない模様。

④物品使用は困難。歩行に支障はなく、手も上手に使え、膝蓋腱反射(膝頭の真下をたたいたとき、足が前方にはね上がる反射)は正常、瞳孔反射も正常だった。脈をとるときに触れる橈骨動脈はやや硬化性で、心濁音界の拡大や蛋白尿はなし。

⑤失語、失読、失書、失算、失行、失認など、脳の一部の機能が失われることによって現れる「巣症状」が、時に強く、時に弱く出現。痴呆は常に進行し、最後には無欲状になり、下肢屈曲肢位でベッドに横たわり、失禁、褥瘡(床ずれ)を生じた。


2018年11月08日

特異な臨床像

1906年11月3日午後、いよいよアルツハイマーによる歴史的な学会発表がはじまります。それがどのようなものであったのか、コンラート&ウルリケ・マウラー『アルツハイマー』をもとに、これから少しずつ、詳しく見ていきます。

学会といえば、いまではパワーポイントを使ったグラフィカルな発表が当たり前ですが、100年以上前のこの発表も、スライドを用いて視覚的な構成に気を配ったものだったそうです。

アルツハイマーは、フランクフルト市立精神病院で診察したアウグステについて「既知の疾患に入れがたい特異な臨床像を呈しました」として、次のように説明をはじめました。

「症例は51歳女性です。夫に対する病的な嫉妬心で発病。時間を経ずして記憶力低下が出現し、自分のアパートの勝手が分からなくなり、物をあちこち引きずり回したり、身を隠したりしました。時に誰かが自分を殺そうとしていると信じ込み、奇声を発しました。院内では、全く途方にくれているような振舞いが特徴的でした。

失見当識が著名で、ときどき全てが理解不能となり、勝手が分からないというような態度を示しました。やがて彼女は医師を客人のように歓迎し、まだ仕事が終わっていないと言って誤りますが、すぐに大声で叫び、彼が彼女を切り裂こうとしているとか、女性の名誉を傷つけると非難し、決まり切ったように頑なに彼を拒否しました。

一時的にせん妄状態になり、シーツをあちこち引きずりながら夫や娘の名を呼びますが、これは幻聴のためかと思われます。彼女はしばしば、ゾッとするような声で長時間にわたって叫びました。また検査の最中に、状況を認識できないときなど、例外なしに大声を出して叫びました」。

この中で「失見当識」というのは、自分の置かれている状況を認識すること(見当識)が正常に行われない状態のこと。自分が置かれている時や場所、周囲の人間関係などを正しく認識しているかどうかで判断されます。見当識は、判断力、思考力、記憶力などと密接な関係があって、意識障害や認知症の際に障害がでます。

「せん妄」は、幻想的な世界に巻き込まれ、幻覚や錯覚に左右される意識変容のかたち。外界は夢のように変容し、周囲の人や物は鬼や怪物などに錯覚され、恐怖や楽しい場面の情景的な幻覚がつぎつぎに不連続的に現れます。小人がたくさん出てくる小人島幻覚や、うじ虫のような小動物がうごめきながら体にいっぱいたかるような幻覚を伴うこともあります。


2018年11月07日

南西ドイツ精神科医学会

アルツハイマー病が世界ではじめて取り上げられることになる第37回南西ドイツ精神科医学会は、1906年11月にドイツ南部の都市テュービンゲンで開かれました。

オスヴァルト・ブムケ(Oswald Bumke、1877–1950)、オットー・ビンスワンガー(Otto Binswanger、1852-1929)=写真=ら、世界をリードする著名な精神科医や神経科医を多数含む88人の学者が参加しました。

Otto_Binswanger

ブムケは、1917年に精神病に関する重要な教科書を書いたほか、統合失調症で瞳孔の精神性散瞳反応の欠如を示すブムケ徴候の名のもとになった医学者。オットー・ビンスワンガーは、しばしば小さな梗塞を伴い、大脳皮質下白質の変性のある痴呆、ビンスワンガー病で知られる医学者です。

アルツハイマーの発表は、1906年11月3日の午後の部(2時45分~6時)に割り当てられていました。前の講演が終了すると、座長は次の演者の名を告げました。

「ミュンヘンのアルツハイマー博士が『大脳皮質における特異で重篤な疾患の経緯について』の発表をします。では、アルツハイマー先生どうぞ」。


2018年11月06日

予診票

きょうの午後、2週間ぶりに、グループホームのねえちゃを訪ねました。きょうから、マスク持参です。

アタマのほうは相変わらずという感じですが、確かにちょっと太ったかな、という印象を受けました。

このあいだ届いた高齢者インフルエンザ予防接種予診票に必要事項を書き、ねえちゃ自身で接種を受ける旨のサインをしてホームに提出しました。

まだ自分の名前はちゃんと書けています。スタッフを含めてグループホーム全員が予防接種を受けるようにしているのだとか。

ねえちゃは当然の如くすっかり忘れていましたが、さっき柿の皮をむいて切るお手伝いをしたのだそうで、細かめに切られたその柿が、3時のおやつに出されていました。


harutoshura at 19:17|PermalinkComments(0)ねえちゃの近況 

2018年11月05日

老人斑

アウグステの死亡の連絡を受けたのが1906年4月、現在アルツハイマー病とされる彼女の症例が学会で発表されたのは同年11月のことです。

アルツハイマーはその半年間、学会発表に向けての研究や準備を精力的に進めました。アウグステの脳は病院の解剖学研究室で、まずは肉眼、そして顕微鏡を用いて、研究室を主宰するアルツハイマーとイタリア人客員研究員のペルシーニとボンフィグリオによって綿密に分析が行われたといいます。

その結果、3人は、アウグステが特有の臨床学的特徴をもっていたことで意見が一致します。解剖学的には、神経細胞の大幅な減少を伴う大脳皮質の委縮、神経細胞内の特異な原線維変化、線維性グリアの増殖などが明らかになりました。

さらには、大脳皮質全体に斑状の物質代謝産物の沈着が認められ、組織の維持や増殖に必要な酸素や栄養を得るため既存の血管から新しい血管がつくられる血管新生も起こっていたといいます。

ここでいう斑状の沈着というのは、現在、アルツハイマー病の病理学的特徴の一つとされる老人斑を指しているようです。

アルツハイマー病の脳の組織には、特徴的な2種類の構造物があると考えられています。一つは、神経細胞の中に繊維状の塊が蓄積する神経原線維変化で、もう一つが老人斑です。

老人斑は、βアミロイドと呼ばれるアミノ酸40個前後からなるたんぱく質が主成分であることが分かってきています。アルツハイマー病になると、脳内に大量の老人斑の沈着が起こり、神経細胞死が急速に広がります。

アウグステの脳組織からは、アルツハイマー病患者に特徴的な2種類の構造物が認められていたわけです。


2018年11月04日

精神盲

アルツハイマーは、病状の経過からしても、脳の組織の状態からしても、アウグステの症例が貴重なものであることを認識していました。その理由についてカルテを提供してくれた医師に次のように説明しています。

「これは特異な臨床像であった。更年期の女性に発作を伴わない精神病が起こり、当初から判断力低下が問題であったが、まもなく全く無力で、精神盲に至った。最初物事を正確に捉えて表現することに目立った障害はなかったが、そのうち理解力が衰え記憶障害が目立つようになった。

その他わずかな巣症状、錯誤、保続、失書などが現れた。次第に痴呆が進み、褥瘡がひどくなってついに死が訪れた。麻痺と痙縮は現れなかった」

この中で「精神盲」というのは、物は見えているのに、それを意味づけて認識・理解することができない状態をいいます。脳の両側の視覚野と連合野との間の損傷によって起こると考えられています。

そして、アルツハイマーは1906年11月にドイツのテュービンゲンで開かれる第37回精神科医学会で、アウグステの症例を発表する決意を固めます。


2018年11月03日

ピンクの紙の記録

亡くなったアウグステのカルテが届いた後、アルツハイマーは自分の記憶にある入院当時の様子や病歴などについて、ピンク色の紙に手書きで書き記しています=写真。こうした記録が、後の「アルツハイマー病」の発見へと結びついていくことになるのです。

名前:アウグステ・D
 
職業:鉄道書記官の妻

家族歴:母は更年期よりてんかん

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既往歴、入院時現症および経過:常に健康、幸福な夫婦関係、娘一人、流産なし。半年前に発症。嫉妬深い。記憶力の低下。特に料理中の忘れっぽさ。部屋の中を意味なくせわしく動き回る。知人に対して恐怖心を抱く。家中のありとあらゆる物をどこかに隠し、後で見つけることができない。入院時は途方に暮れた様子であった。失見当識、異常な抵抗。

ホールで困り果てたアウグステ・Dは他の患者の顔に水をかけた。その理由を聞くと「片づけたかった」と答えた。突然思いついてつじつまの合わないことを言い、保続(前に行なった反応を場面や状況が変わっても持続すること)を呈する。書き取りをすると文字や綴りを省いてしまう。明らかに質問の意味を理解できないようだが、時には、内容的に正しい答えを出したりもする。幻覚を有するように見える。

時折、作業せん妄に陥り、布団を持って歩き回り片付けようとする。また、医師が性的暴力を加えようとしたかのような当てこすりをし、憤慨して診察を拒み、医師に出て行くよう指示したりもする。意味のない言い回しを繰り返して言う。何に対しても激しく抵抗する。最後の年には、ベッドでうずくまり、拒絶し、何を言っているのか全く分からない。四年間の闘病後、褥瘡が原因で亡くなる。

ここで褥瘡(じょくそう)というのは、寝たきりなどによって、体重で圧迫されている場所の血流が悪くなったり滞ることによって、皮膚の一部が赤い色味をおびたり、ただれたり、傷ができてしまうこと。いわゆる「床ずれ」です。


2018年11月02日

剖検

さて、アルツハイマーのほうに話は戻りますが、アウグステに関するカルテの最後の15行には、彼女の死に至る日々について記録されていました。

1906年の初めころから好褥(寝ていることを好み、不潔であることも気にしない状態)傾向にある。仙骨と左大転子(大腿骨頸と大腿骨体との結合部の上外側にある大きな隆起)に5マルク硬貨大の潰瘍面がある。体力は非常に消耗し、40度の高熱が続いている。両肺下葉に肺炎。

1906年3月27~28日 絶えず騒ぐ。体重68ポンド(34キロ)。

同3月29~30日 ひどく騒ぐ。深夜12時半に風呂に入る。

同4月6~7日 意識混濁。ときおり嘆き悲しんで泣く。汗ばむ。

同4月7日 一日中意識が混濁し、熱は昼41度、夜40度。

同8日5時45分に死亡。

アウグステの罹病期間は4年半以上に及びました。アルツハイマーが神経解剖学者として特に興味をしめしたのは次のような剖検所見でした。

・死因:褥瘡に伴う敗血症
・解剖学的診断:軽い内及び外水頭症―脳室内への脳脊髄液の貯留
・脳萎縮
・脳内細動脈の動脈硬化症?
・両下葉肺炎
・腎炎


2018年11月01日

インフルエンザ

11月に入り、そろそろインフルエンザのシーズンの到来です。ねえちゃのグループホームから、高齢者インフルエンザ予防接種予診票とそれに関する説明書が届きました。

インフルエンザウイルスを病原とするこの感染症の語源は、16世紀のイタリアの占星家たちが、星や寒気の影響(influence)で発生すると考えたことによっているのだとか。

こうした長い歴史をもつインフルエンザの発生は、国内では、毎年11月下旬から12月上旬ころ始まり、翌年の1~3月頃に患者数が増加し、4~5月にかけて減少していくというのが通常のパターンです。

届いた説明書によると、厚生科学研究班の報告では、65歳以上の健常な高齢者については約45%の発病を阻止し、約80%の死亡を阻止する効果があったそうです。

ねえちゃにとってインフルエンザの予防接種は、すっかり身についたこの時節の恒例行事。集団生活に入った今年からは、感染症を個人の問題と考えることは許されません。

それだけに予防接種は、一年の中でもとりわけ重要なイベントです。きょうの夜の電話で「インフルエンザの注射、ちゃんと受けるんだよ!」と念を押すと、「わかった~」と明るい返事がかえってきました。


harutoshura at 22:26|PermalinkComments(0)ねえちゃの近況 

2018年10月31日

体重37キロ

アルツハイマーが郵便で受け取ったカルテは全部で31枚ありました。きのう見た1902年6月のカルテには、アウグステがたいへん拒絶的で、診察しようとすると叫んだり叩いたりする様子が記されていました。

その後の1904年4月2日の記載には「まったく変化なし」。同年11月11日には「ベッドにうずくまり、シーツを丸め、むやみに何かをせずにいられず、自分の体をひっきりなしに汚した。以前のように泣き叫ぶことはなくなった」とありました。

1905年5月以降、カルテは月に何度か補足されています。健康状態や態度のほか、体重も記録されていました。

たとえば1905年6月29日の記録には「非常にうるさかった。10時に入浴。体重74ポンド(37キロ)」。いまのねえちゃとは違い、ずいぶんとやせ細っていたことがわかります。

1905年7月12日「完全な意識混濁状態、足を胸につけてベッドでうずくまる。便と尿で常に汚れたまま。無言でいるが、何かハッキリしない独り言をいう。食事の介助が必要。時にこれといった理由なしに興奮状態に陥り、大声で叫び、唸る」

1905年11月7日「うずくまった格好でベッドの中で唸る。何を言っているか分からない。質問に答えるがまったくつじつまの合わないことを言う。シーツを繰り返し指でつまみ、ベッドをしょっちゅう引っ掻き回す。叫び声を上げるので、静かにさせるために夜何度も風呂に入らねばならない。栄養を十分に摂るとまた少し元気になる」

1905年12月29日「監視ホールのベッドで、膝を胸部にぴったりとつけ、硬直気味に身をよじっている。足を伸ばそうとすると高度の緊張と抵抗にあう。特に夜中にときおり、大声で叫ぶ」

カルテの記録からは、アウグステは頻繁に睡眠薬を与えられていたこともうかがえたそうです。1905年5月7日には睡眠薬を飲んでも静かにならなかったものの、同年12月12日には翌朝まで熟睡しました。

1906年3月1日には、ひどく落ち着きがなく睡眠薬が与えられましたが、静かにならなかったため11時に風呂に入っています。このころは、死亡直前に至るまでアウグステは毎日風呂に入ってたようです。


2018年10月30日

「死」の連絡

1906年4月9日、フランクフルト精神病院の研修医から、アルツハイマーに電話が掛かってきました。

彼は当時、クレペリンとともにミュンヘン王立精神病院へ移り、解剖学研究室を主宰していました。

電話は、「アウグステが昨日亡くなった」ことを告げるものでした。

アルツハイマーはかつての上司に、カルテの他、顕微鏡で調べるためにアウグステの脳を提供してほしいと頼みました。

彼は、比較的若いアウグステには、健忘症と病的嫉妬という症状の背後に、これまでに知られていない特異な病気があるのではないかと推測していたのです。

カルテ

こうして入手したカルテの一つ=写真=には、アルツハイマーの最後の署名のある、次にあげる1902年6月記載のものもありました。

「アウグステ・Dは診察しようとすると相変わらず拒否的で、泣き叫び、叩いたりする。彼女は不意に、しばしば数時間にわたり泣き続け、そのためベッドに押さえつけなければならない。食事に関しては、彼女は予め決められた食事をもはや摂ることができない。背中にはできものができている」

ていねいに紐で綴じられた濃紺の表紙には、

フランクフルト市立精神病院
アウグステ・D(旧姓H)に関する病歴
年齢:51歳
宗教:キリスト教改革派

1から12までの連番の欄には、項目として「入院」と「退院」が記載され、1番の入院の欄には「1901年11月25日」が、退院のところには定規で横線が引かれ、2番から12番までの欄はていねいに右上から左下にかけて車線で消されていました。


2018年10月29日

似ている

日曜日になるとねえちゃの頭に何らかのシグナルが起動するのか、いつも朝早くから電話がかかってきます。

きのうは、朝に加えて昼のお昼寝前、そしていつもの夜の就寝前と3回電話がありました。3回目のときに「いつも思うんだけど、あの若い子、似てるんだわ。ダイエーにアルバイトに来ていたんじゃないかと思うの」と少し興奮気味にいいます。

グループホームのスタッフの一人が、ねえちゃがむかし勤めていたスーパー「ダイエー」でアルバイトをしていた学生さんによく似ているというのです。

ねえちゃは長野店がオープンした1976(昭和51)年にダイエーに入り、その魚売り場で20年ほど働きました。退職して数年たった2000年末に、ダイエー長野店は閉店しています。

もし、ねえちゃといっしょに働いていたとすれば、それから少なくとも20年以上経っていることになります。とすると、仮にそのとき高校生アルバイトだったとしても、少なくとも現在40歳くらい。もはや「若い子」とはいえない年齢になりつつあるはずです。

「その人、40代くらい?」と聞くと、「えっ、そんな年になってるの!」と、ねえちゃはビックリ仰天しています。年月(時間)が経つ、という認識はねえちゃの頭から消えつつあり、あのときのまんまの姿が頭の中に映っているようです。

「気になるんだったら、それとなく聞いてみればいいじゃない。いまさらべつに、恥ずかしがってもしょうがないでしょ……」


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2018年10月28日

最後の診察

51歳のアウグステが、アルツハイマーの勤務するフランクフルト市立精神病院に入院したのは、1901年11月のこと。彼女のカルテにアルツハイマーが最後に記載したのは、1902年6月でした。半年あまりの付き合いだったことになります。最後のカルテには――

「アウグステ・Dは診察しようとすると相変わらず拒否的で、泣き叫び、叩いたりする。彼女は不意に、しばしば数時間にわたり泣き続け、そのためベッドに押さえつけなければならない。食事に関しては、彼女は予め決められた食事をもはや摂ることができない。背中にはできものができている」

また、二人の最後の会話は次のようなものだったそうです。

「こんにちは、Dさん」
「ああ、仕事がうまく行くようになさったら。私はもう喋れません」

クレペリン

あてもなくさまよったり、無計画に動きまわったり、大声で叫んだり嘆いたりといった彼女の落ち着きのない言動は、日増しに多く現れるようになっていました。グループホームで落ち着いて暮らしていられるねえちゃと比べると、アウグステは相当に重症になっていたようです。

アルツハイマーは1902年、著名な精神科医、エミール・クレペリン(1856-1926)=写真、wiki=の研究助手としてハイデルベルクの病院へ移っています。

アルツハイマーはこの年、38歳。前年の1901年には妻セシリーを病気で失っています。フランクフルトを去ってからも、熱心に診てきた患者アウグステのことを忘れることはありませんでした。


2018年10月27日

診察にならず

入院して3カ月後の1902年2月になるとアウグステは、絶えず落ち着かず、不安でどうしようもないという状態になっていました。

毎日のように反抗的な態度を取るので診察にならず、彼女はほとんど一日中、温浴室にいました。

寝室では寝入ることができず、自分のベッドを離れて他の患者のベッドに行って起こしてしまうため、夜はたいてい隔離室へ連れていかれました。

アウグステは長時間の徘徊ののち眠りに入りましたが、アルツハイマーは彼女がおかしな格好で寝ることに気づきました。

枕を自分体の上に載せて、掛け布団の上にうずくまった姿勢で横たわるといった具合に、寝具をまったく用途に合わない方法で用いていたのです。

たまに落ち着いていると鍵の掛かっていない開放病棟に移されましたが、回診が始まると担当医を途方に暮れた顔つきで迎え、「ああ、こんにちは、何でしょうか?」とか「何かご用ですか?」とかしか言いませんでした。

アウグステは自分が家にいて、お客を迎えていると信じていたのです。だから「夫はすぐ来ますから」というのですが、思い通りに運ばないのですぐに顔をそむけ、また徘徊したりするようになりました。

彼女を縛ろうとすると泣き始め、意味のない言葉を発して嘆き、憤懣をぶちまけました。栄養状態は良好でしたが、アルツハイマーと3カ月前にしていたような長い会話は、もはやできなくなっていました。


2018年10月26日

写真

診察をつづけていくうちにアルツハイマーは、アウグステと親密な関係を築くことができました。

やがて彼は、アウグステの症例が医学的にたいへん重要なものと気づき、病気の経過を詳しく記載しようと努めました。病院の写真係には、彼女の写真をたくさん撮ることを命じました。

1902年11月には、いま世界中で知られている印象的な写真()が撮られました。

Auguste

アウグステは少し腰を曲げて横を向いてベッドに座っています。髪は長く暗褐色で、顔の両側に巻き付くように垂れています。

顔は細めで、額と眼の下にしわが多く、鼻の周りのしわはくっきりとしています。彼女はボタンの付いた白いナイトウェアの病人服を着て、ぼんやり物思いにふけっているように見えます。

このときは落ち着いた、穏やかな気分だったのでしょうか、手入れが行き届いた指の長い手は、膝の上できちんと組まれています。

治療の計画は、アルツハイマーが自ら立てました。彼はアウグステに温泉療法をするように指示しています。

温かいお湯やぬるま湯に、数時間、あるいは数日にわたって入ることによって、患者の興奮状態を和らげる治療法を、アルツハイマーは研究していたのです。


2018年10月25日

入院

アウグステは、自分が聞いた会話の内容を自分のこととして受け取っていました。ただ、言語障害や麻痺のような症状は、まったく見られなかったといいます。

彼女は、しばしば死について語りました。朝方は興奮状態で震え、近所の家々のベルを鳴らしては、ものすごい音をたててドアを閉めました。

特に乱暴だったというわけではなかったようですが、入院する直前にアウグステは隠せるものをなんでも隠してしまったため、彼女の家は大混乱をきたしました。

こうして夫の手に負えなくなったアウグストは、1901年11月25日に入院し、アルツハイマーの診察を受けることになります。

ホームドクターからの紹介状には大きな字で次のように記されてたそうです。

「アウグステ・D婦人――鉄道書記官カール・D氏夫人、住所メールフェルダー・ラント通り――はかなり長期にわたり記憶力減退、被害妄想、不眠、不安感に悩まされております。患者はいかなる肉体的精神的労働にも対応できないものと思われます。彼女の状態(慢性脳麻痺)は当地の精神病院での加療を必要とします」


2018年10月24日

不信

さて、ここでまた世界ではじめてアルツハイマー病との診断がなされることになるアウグステの話にもどります。

夫の話によると、アウグステは1901年3月まではまったく普通だったといいます。それは、1901年3月18日のことでした。彼が隣人の女性と散歩に出かけたと突然アウグステが言い出したのです。

この全く理由のない言い草が、夫が最初に気付いた“異変”でした。この時点からアウグステは、夫とその女性に対して非常な不信感を抱くようになりました。

その直後に夫は、彼女の記憶力が低下したのに気がつきました。2カ月後の5月に、彼女は食事の用意をしている最中に大きな失敗を初めて体験して、落ち着きなく目的もなく部屋の中をあちこち動き回るようになりました。

そして彼女は、家事をおろそかにするようになります。彼女の症状は悪くなる一方で、家にやって来る荷馬車の御者が自分をどうにかしたいのだ、と言い張るようになっていきました。

アウグステほどではありませんが、思えば、ねえちゃも、これに似かよった“異変”が、短期間の間にあれこれ起こってきたように思われます。


2018年10月23日

愛車

きょうの午前中、半月ぶりにねえちゃのグループホームを訪れました。

白髪が少し増えて来たかな、という程度で、症状がとくに進んだなといった感じはありませんでした。いつものように「お前の顔はまだわかる」と頷いていました。

ねえちゃの家には、ボロボロになった自転車が1台あります。あるじが居たときは、この愛車を押して買い物に出かけるのが常でしたが、いまは野ざらしの状態です。

きのうの夜、宅急便を出すため、前と後ろのカゴに段ボールを載せてコンビニまで押して行きました。タイヤは両輪ともパンクしていましたが、まだ役にはたちました。




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2018年10月22日

7カ月

きょうの夜、半月ぶりにねえちゃの家を訪れました。釣瓶落としに日が暮れて、近くの田んぼも稲刈りはすっかり終わっていました。

郵便受けには、生命保険会社やかんぽ、地震保険などの控除証明書が入っていたくらいで、これといった手紙はありませんでした。

断っておいたのにときどき間違えて入っていることがしばしばあった新聞も、投函されることが無くなって来ました。ちらしも減ってきたように思います。

固定電話の留守番電話も、着信履歴も留守にしておいたあいだ何もありませんでした。

もちろん家の中には思い出の詰まったものが、まだいっぱい残っていますが、家を出て7カ月、ねえちゃにとって、生活上も、気持ちのうえでも、グループホームが“わが家”になってきています。



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2018年10月21日

カルテ

後に、アルツハイマー病と診断された最初の患者ということになるアウグステのカルテは、次のようになっていました。

カルテ番号:7139
姓:D、旧姓H
名:アウグステ
出生地:カッセル
郷里:プロイセン
現住所:フランクフルト・アム・マイン、メールフェルダー・ラント通り
生年月日:1950年5月16日
家族状況:既婚
宗教:キリスト教改革派
職業:鉄道書記官の妻

病型は「動脈硬化性脳萎縮」とされていましたが、記入に際しては疑問符が付されていたといいます。

当時、アルツハイマーは、脳血管壁の肥厚など動脈硬化性の変性が老年性の脳萎縮を招き、これによって老年痴呆が起こると考えていました。

ところが、アウグステのような初老期の50歳から60歳の間に、このような変化が起こるのだろうか、という疑問を抱いていたのです。

実際、数年前に診察したアウグストと似た患者の剖検や脳組織の検査では、脳の神経細胞の委縮は明白でしたが、動脈硬化性の血管病変はごく軽度に過ぎませんでした。


2018年10月20日

悪く思わないで

1901年12月初旬のこと、アルツハイマーがアウグステの部屋に入ったとき、彼女は不信感を抱いているように見えました。

会話の間ずっと、彼女は泣き出しそうな声を出し、答えるのに時間がかかりました。

「先生は私のことを悪く言っているでしょう?」

「どうして?」

「私たちにまったく借金がなかったと思うけど、分からないわ。ただちょっと興奮しているだけなの。私のことを悪く思わないでくださいね」。

また、アウグステが悲嘆にくれながらうろつきまわり、他の患者の顔につかみかかろうとした際にも、やってきた当直医に「ああ、ごめんなさい、先生」とあやまったうえで、「私のことを悪く思わないでくださいね」。

彼女は、何を悪く思わないで欲しいのかという質問には答えません。隔離され、個室にある寝具をごそごそいじくりまわしているときにも、自分のほうを見た医師に「先生、私のことを悪く思わないでくださいね」といいました。

アウグステは興奮してくると、なぜかしばしば、このように「私のことを悪く思わないでくださいね」という言葉を繰り返したといいます。


2018年10月19日

ここはどこ

初診から4日後の1901年11月30日、アウグステはたびたび病院のホールへ行って、他の患者の顔をつかんだり、叩いたりしました。

なぜ彼女がそうするのか、誰もわかりませんでした。彼女は隔離され、アルツハイマーは惑わされずに診察を続けました。

「気分はどうですか?」
「ここしばらくとても良かったです」
「ここはどこですか?」
「ここでもどこでも、ここでも今、私のことを悪く思わないでくださいね」
「ここはどこですか」
「そこに私たちはまだ住むと思います」
「あなたのベッドはどこですか?」 「どこになきゃいけないんですか」
「昨晩よく眠れましたか?」
「ええ、とても」……

この日、アウグステはずっと奇妙な振る舞いを続けました。そして彼女はアルツハイマーに「ここは先生の来るようなところではないのです」と、部屋かだ出ていくように指図しました。

そうかと思うと、彼女はまた、アルツハイマーを客人のように迎えて「どうぞ、椅子に掛けてください。今まで時間がなかったんです」とあいさつしました。

その後でまた、彼を隔離室から押し出し、小さな子どものように部屋の外に向かって大声で泣き叫びましました。

2018年10月18日

こんなじゃないのに

アルツハイマーは、アウグステの前に、歯ブラシ、パン、スプーン、ブラシ、コップ、ナイフ、フォーク、皿、財布、硬貨、葉巻、鍵などの物を並べて、目をつむって手触りで言い当てさせました。

彼女は苦もなくこれらを言い当てました。ただ、ブリキのコップをティー・スプーンのついたミルク・ピッチャーと間違えてしまいましたが、目を開けるとすぐコップと言い直しました。

書くことは相変わらずでした。「Frau Auguste D」と書くように言われると、「Frau」まで書いて後はまた忘れてしまいました。何回も繰り返して言って、やっと書き取ることができました。

書いているあいだ、彼女は「本当はこんなじゃないのに」と繰り返したといいます。ねえちゃもそうですが、本来の自分ではないという自覚はあったことになります。

また、読む方は、ある行から別の行に飛ばしてしまったり、ある行を5回も読んでしまったり、読んでいる内容を理解していないようだったそうです。 



2018年10月17日

隔離室

アウグステ・データーは、非常に静かな病院の隔離室に入れられました。

初診から3日後の1901年11月29日、アルツハイマーがそこへ入って行くと、彼女はベッドに横になってボーッとしていました。

――ご機嫌はいかがですか?

「いつもといっしょです。いったい誰が私をここへ連れてきたんですか?」

――ここはどこですか?

「さしあたっていま言ったようにお金がないんです。自分でも分からないわ、まったく分からないの、何ていうことなんでしょう、どうすりゃいいの?」

――お名前は?

「D・アウグステ夫人!」

――いつお生まれですか?

「1800え―と…」

――何年に生まれましたか?

「今年、いや去年」

――何年生まれですか?

「1800…分からない」。

きのう見たように実際には、アウグステは1850年5月16日生まれでした。ねえちゃとのやり取りとどこか似たところがあるように思われました。


2018年10月16日

アウグステ

フランクフルト・アム・マインの市立精神病院で医長をしていたアロイス・アルツハイマーが、初めてアウグステ・データー (Auguste Deter) の診察をしたのは1901年11月26日のことでした。

アウグスト
*Auguste D, June 18, 1902

昼食にアウグステはカリフラワーと豚肉を食べていました。しかし、アルツハイマーが「何を食べていますか?」と聞くと、「ほうれん草」と言って彼女は肉を噛んでいます。

「今何を食べていますか?」と聞くと、「初めにじゃがいも、それから西洋ワサビを食べます」。

もう一度いくつかの物を見せてみましたが、アウグステはしばらくするともう何を見たのか覚えていません。

アルツハイマーが「ここに『Frau Auguste D』と書いてください」というと、「Frau」まで書いているうちに続きを忘れてしまいました。一語一語区切って言えばその通り書くことができましたが、「Auguste」は「Auguse」になってしまっていました。また、一旦捉われた考えに病的に執着する傾向も見られました。

名前を書いている間に忘れてしまう患者は、医師としての経歴の中でこれまで彼が経験したことのないものでした。アルツハイマーはこのとき、彼女の状態を「健忘性書字障害」と診断しています。

アウグステは、鉄道書記官の妻で、1850年5月16日の生まれ。ですから、このときまだ51歳だったことになります。

ねえちゃは、自分の名前を書いている間に忘れるということはいまのところないので、この障害については、このときのアウグステのほうが進行していたと考えられます。


2018年10月15日

アロイス・アルツハイマー

このブログの投稿も、いつの間にか1000回近くになりました。もともと、認知症に悩む“ねえちゃ”について家族の連絡用に作ったものですが、最近はねえちゃの周辺に関わることだけでなく、認知症や脳の研究の現状や、アルツハイマーという医師についての興味もふくらんできています。

これからは、こうしたやや遠くにあるサイエンスの話題もおり交ぜて、少し広い視野に立って“ねえちゃ”の病気を根気よく眺めてみたいと思っています。なんとも地味なブログですが、気が向いたときにでもお立ち寄りいただければ幸いです。

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そもそも、ねえちゃが罹っているアルツハイマー病は、アロイジウス・"アロイス"・アルツハイマー(Aloysius "Alois" Alzheimer、1864-1915)=写真、wiki=とうドイツの医学者の名前に拠っています。

彼は、自身が診断したアウグステ・データー (Auguste Deter)という嫉妬妄想・記憶力低下などを訴える女性患者の症例を、1906年に南西ドイツ精神医学会で発表しました。これが後に、「アルツハイマー病」と呼ばれることになったのです。

アルツハイマーは、1912年に精神科の大学教授に就任しましたが、3年後の1915年12月に、大学へ向かう途中の列車内で体調を崩し、間もなく心疾患のため亡くなりました。


2018年10月14日

落差

ねえちゃの電話はこのところずっと、毎日、寝る前に1回と安定していたのですが、きのう、きょうと夜2回ずつ、さらに、きょうは朝早くにも1回掛かって来て起こされました。

夜は「これから寝るの」「何か困ったことない?」「何にもない。おやすみ」と、落ち着いた口調でスムーズに話していたかと思うと、30分もしないうちに「おばあさん、どこに居るんだろ?」と、何が何だか分からなくて困っている切羽詰った様子で再び掛けてきます。

グループホーム生活記録の通信欄にも、時々、自宅~入所までの経緯を忘れてしまい「どうしてこちらでお世話になってるんでしたっけ?思い出せなくて」等の発言がある、との記載があります。

いまに始まったことではないものの、いつも、この30分も経たない間の「落差」には驚かされます。が、ホームの職員のかたにも、私たちに対しても、ちゃんと説明すると納得して次第に興奮は止んで穏やかになっていくのは救いです。


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2018年10月13日

カップ麺

ねえちゃが自宅で暮らしていたときは、1週間分の食料品は、私が生協とワタミの宅食へ注文して賄っていました。

「たまにはカップ麺はどう?」と聞くと、「じゃあ、わかめラーメンかな」というので、何個か注文したりしていたのですが、けっきょく作って食べることはなく、私が代わって、というのが常でした。

カップ麺をどうやって作るのかも忘れてしまったのか。カップ麺を作ることさえ億劫になって、食べてみる気力も失せてしまっていたのか。

先月、グループホームで台所の大掃除をしたため、お昼がカップ麺になったことがあったそうです。

そのとき、ねえちゃは「緑のたぬきそば」を選んで完食、「久しぶりで美味しかったよ」と喜んでいたそうです。ホームでは、カップ麺の楽しみも味わいつつあるようです。


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2018年10月12日

ケーキ4つ

ねえちゃのグループホームから、9月の生活記録が届きました。

おやつのケーキバイキングでは、おかわりを含めてケーキを4つも食べ、お彼岸にやってきた地区の獅子舞を最前列で観たり、……。

よく食べ、みんなとあれこれ話し、いろんな活動に参加して、次々忘れていっても、瞬間瞬間に生きがいを感じているようです。

きょうも、夕食後の団欒を終えて寝る前に、私のところへ元気な声で電話がありました。

「楽しくやってるよ。おかげに、まだ、出て行ってくれって言われないし。おやすみ」


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2018年10月11日

判断

私たちが何かを判断するとき、記憶を頼りにすることがよくあります。「あのときはこうしたな」と、過去の同じような状況を思い出し、それと現在とを照らし合わせて判断するのです。

ところが認知症になると、現在の状況と似たような過去の記憶を探し出すことができず、たとえば「今日は寒いから暖かいうどんがいい」とか、記憶を頼りに判断することが困難になるそうです。

ですから認知症の人は、いろんなモノの中から「きょうは何を食べよう」と判断することができず、情報が多いことが、役立つどころか、頭の混乱を招くじゃまものでしか無くなってしまうことも少なくありません。

だから、食べるモノややるコトがある程度決まっていて、たいていは「AとBのどっちにする」といった程度の判断でやっていけるグループホームでの生活は、ねえちゃにとって、すごく楽で、安心していられるようです。


2018年10月10日

習慣化

認知症になっても、「習慣」として身についたことに関する記憶は、衰えにくいようです。

習慣化したことを無意識にしているときには、脳の奥深くにある基底核というところが、いつも同じ経路に沿って活動しているからなのだそうです。

そういえば、ねえちゃの場合も、午前中に血圧手帳、夕食後には日記、そして寝る前に私のところへ電話を掛けてくるのが習慣化しています。また「更衣・整容を習慣にできる」ことを目標の一つにしています。

ロンドン大学の研究によれば、普通の人が新しい習慣を身につけるために必要とされるのは、平均66日間なのだとか。

認知症の場合は多少ちがうのかもしれませんが、習慣化をうまくすることが生きる力につながる可能性は大いにありそうです。


2018年10月09日

ウォーキング

ねえちゃのグループホームには長い廊下があって、リハビリのため懸命に歩いているかたの姿をよく見かけます。

認知症のリスクは、歩幅がせまくなってくると高くなるという研究結果もあるそうです。

また、ウォーキングのなかに、少し息のはずむ中強度の歩行、つまり「速歩き」を含めることも認知症予防などにために効果的だとか。

ある専門医師によると、ウォーキングの理想的なフォームは背筋を伸ばし、通常の歩幅+10センチくらいで歩くこと。

40~64歳は1日30分、65~74歳は1日20分、75歳以上は1日7.5分、歩幅を広げた速歩きを、毎日のウォーキングに含めるのが理想なのだそうです。


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2018年10月08日

留守番電話

「おばあさんです。これから寝ます。おやすみ」。きょうの午後8時16分の日付で、落ち着いた声で、こんな留守番電話が入っていました。

以前は、1日に5回も6回も電話をかけて来ていたねえちゃですが、最近は、寝る前に1回、というのが日課になってきました。

私が外出しているときは、ちゃんと留守番電話に吹き込んであります。

あれこれみんな忘れてしまうねえちゃですが、頭の中の生物時計に刻まれたのか、不思議に電話は忘れません。

以前、私の仕事が忙しかったときは応対がトゲトゲしかったようで、「電話するのが怖かった」と言っていましたが、ヒマ人となったいまは気軽に掛けられるのかもしれません。


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2018年10月07日

神戸モデル

2年前にG7保健大臣会合が開催され、認知症対策を盛り込んだ「神戸宣言」が出されたのを踏まえて、神戸市では「認知症の人にやさしいまちづくり条例」を制定し、今年4月から施行されています。

さらに同市では、認知症の早期受診を推進するための診断助成制度、認知症の人が火災を起こしたり外出時に事故に遭った際の救済制度などの創設を内容とする、全国に先駆けた“神戸モデル”を実現しようとしているのだとか。

たとえば、認知症の人が火災を起こしたり事故に遭った場合には見舞金が支給されます。外出中の事故で死亡した場合3000万円、入院すると最高10万円、持ち物が壊れたときには最高10万円、火事の際には最高40万円などの案も出ているそうです。

これらの財源をどうするのかというと、神戸市は市民税均等割に1人あたり年間400円を上乗せする増税案を検討しているそうで、市民らから意見を募っています。

認知症の人が絡んだ交通事故や火災をしばしば耳にする昨今、神戸モデルのような試みが必要な時代に来ているなという気もしてきます。