Aokijima

「認知症」と「ねえちゃ」に関する覚書です

きょう午後1時半ごろ、ねえちゃから電話がありました。「うちへ帰らずにここに居ていいんだろうか?」といつもの疑問が沸いてきたようです。

さっきまで昼食で使った食器を洗う手伝いをさせてもらって、部屋に帰ってきたら、うちへ帰らなければと心配になってきたといいます。

「そこにいて何か不自由あるの?」と聞くと「毎日おいしいもの食べられるし、誰かいてくれるし、困ることなんにもない」。

毎日、繰り返し、繰り返し、沸いてくる疑問。そのうち、グループホームに居ることが当たり前になって疑問にならなくなるまで、気長に待つしかなさそうです。

ねえちゃにとってこれまで、毎日、血圧を計って血圧手帳に折れ線グラフを書き込むのが、「日記」と並ぶ大きな仕事でした。

でも、グループホームへ入ってからは、血圧測定に関しては施設のほうで毎日きちんとやってもらえるようで、血圧手帳に「折れ線」を書き込む必要がなくなりました。

長いあいだ書き続けて、十数冊にもなる血圧手帳が中断するかたちになって、ちょっぴり寂しそうではあります。が、「それじゃ、日記に集中できるね」と、けっこう前向きです。

何かあったらすぐ、メモの代わりに書き込んでいく。今年の日記帳は書き込むスペースが広いので、それだけでもなかなか大変です。


ねえちゃは、現住所のある長野市では、これまで3カ所で暮らしました。西長野、北堀、ちょっと前まで住んでいた青木島です。

グループホームへ入って、「家へ帰らなくていんだろうか」としばしば口にしますが、果たして自分のいまの家がどこなのか、記憶がこんがらがって分からなくなってきたようです。

「電車の駅を降りて、お医者のところを曲がって……」と話すのを聞くと、30年以上前、長野電鉄の朝陽駅の近くに住んでいた家が念頭にあるようです。なのに、その近所の人となると、いま家がある青木島のお隣さんの名前が出て来たりします。

グループホームへ来てまだ20日ですが、もう自分の家の記憶さえ、定かでない。それでも、「この施設が自分の家だと思ってればいいのね」と、けっこう明るいのが救いです。

ねえちゃの家の廊下の端っこに、下着がぶら下がているのを見つけました。

ドタバタでグループホームへ引っ越したので、洗濯して干したまんますっかり忘れていたのです。

せっかく洗濯したのだからと、それを持って今日の午後、ねえちゃに面会に行きました。

移って20日。記憶の衰えは相変わらずですが、ずいぶん落ち着きが出て、表情が穏やかになってきたのを見ると、グループホームへ入って良かったなと実感します。

真面目なねえちゃにとって、家で一人暮らしというのが、いろんな意味で大きなプレッシャーになっていたんだな、とあらためて感じます。

ただ、うっかり、持っていった下着に名前を書かずに渡してしまいました。共同生活の鉄則に、私のほうがまだ、ついて行けていません。

10日ぶりくらいで、ねえちゃの家を訪れました。

駐車スペースの脇に、この間の大風の影響をを受けたと思われる、折れた雨樋が転がっていました。

どこかの樋が折れたのかなと見渡してみましたが、それらしきところは見つかりません。

ひょっとすると、以前に修理して使わなくなった樋の可能性もあります。そのあたり、認知症の家主に聞いても残念ですが確かなことは分かりません。

あしたもう一度、家の周りを点検しようと思いますが、強風で大きな被害は無かった様子なのでホッとしました。

「おバアさん、あした家へ帰ろうと思ってるんだけど、お金が無いし、どうしたらいいんだろ」

と、きょうの午後8時ごろ、ねえちゃから電話がありました。

「何、施設の人に出て行けって言われたの?」

「そんなこと、言われないよ」。

「お金は、施設の中では持ってはいけないことになってるの。それで何か困ることあるの?」

「ないよ、別に」。

「じゃあ、ずっとそこに居ればいいじゃない。このあいだの大風で家がどうかなってないか、あした行って見ておくから」

「そう、じゃあ、おバアさんはなんにも気にせずに、ここに居ればいいんだね。おやすみ」

と、どこまでどう理解したか知れませんが、それでも落ち着いた調子で床に就きました。

「ずいぶん強風が吹いたようだけれど大丈夫だった?」

昨日の夜、電話をすると、もう眠りの中にあったねえちゃは、何のことだかわからないというふう。

強風でいろいろ被害があったことも頭には無いようです。

ねえちゃのグループホームは、平成21年4月開設ということなので、まだ9年。

広い施設の中にいれば、外の天候や風が気になることもほとんどないのでしょう。

でも、ねえちゃの家のほうはといえば、もう30年。

不在のあいだの天災のことも、考えておかなければなりません。

荒れ模様の天気となったきょうの午後3時ごろ、ねえちゃの家のお隣のかたから電話をいただきました。

ありがたいことに、長野で大変な風が吹いて家の樋のあたりが壊れたようだと、知らせてくれたのです。

テレビのニュースを見ると、日本海を低気圧が発達しながら東北東に進んで強い南風が吹いた影響で、長野県内でも、看板が倒れたり、木が折れたりといった被害が出ているようです。

週明け早々に長野へ行って、様子を見て来なければなりません。

夕食を終えた8時過ぎ、ねえちゃに電話をしてみました――。

「何か、悩みとか、不自由していることとかない?」と聞くと、落ち着いた声で「バカなことだけ」。

「そりゃ、お医者さまでもたやすくは治しゃせぬ、だからしょうがないよな!」

「そろそろ、夏物とかが要るんじゃないの?」と言うと、「長野はまだそんなでもないから、当分はだいじょうぶ」。

これまでは、電話に出ないと「また徘徊に出たか?」とやきもきしましたが、グループホームへ入ったおかげで、そんな“やきもき”の必要が無くなってきました。

一方で、ねえちゃのほうも「何がなんだか分からず、どうしよう」という一人暮らしの怖さのようなものを、感じなくて済むようになってきているようです。

ねえちゃがグループホームへ移った旨の、ごく親しい知人や親せきへ挨拶状を、いちおうひととおり送り終えました。

今年、年賀状を出していたからと、どういう縁の方かわからずに送ったなかに「高校時代の友達」というかたもおられ、返信をいただきました。

ご主人がパーキンソンで入院されているそうで、「今日一日を少しでも明るく過ごそうと思うのですがなかなか大変です」と記されていました。

だれもがみんな同じように与えられた年月(時間)を生き、それぞれに老いを重ねていきます。

この方がおっしゃるように、ねえちゃにも、新しい環境で「一日を少しでも明るく」過ごしてほしいものだと願うばかりです。

夜の8時ごろ、ねえちゃから電話がかかってきました。「隣でご飯食べてた人が、あした家に帰るといってたけど、帰らなくいいの?」と不思議がっています。

「お隣のかたはそこにずっといて、あした何か帰る用事ができたんでしょ。おバアさんは、何か帰らなきゃならない用事があるの?」と聞くと、黙っています。

どうも、旅行か何かで旅館に来ていて、あしたみんなそろって帰宅しなければならないのだと思い、あわてているみたいです。

「帰るしたくをするように言われたの?」「なにかあって帰りたくなったの?」と聞いても、特にそうしたことはないといいます。

そして、「ここがおバアさんの家だと思えばいいんだね!」と、何度も繰り返しています。

特にグループホームに抵抗感があるわけでなく、自分がいまどこで何をしているのか、はかりかねているようです。

一日中、パジャマ姿でいて、起きていれば家の外を眺めながら「誰も通らない。寂しい」とこぼしていたねえちゃ。

それが、グループホームへ入ってからは、ごくあたりまえの普段着ですが、ちゃんと着るものを着てけっこうサマになっています。

「やることがない」「やりたいことがない」というのが大きな悩みだったのが、「料理の手伝いをしてきた」「みんなでテレビを観てきた」などと、弾んだ声で話すようになりました。

いろいろやっていると、家族に電話をするひまもないのか、毎朝のように掛けてきた電話が、きょうは無し。起こされずに済みました。

グループホームには必ず計画作成担当者の配置が決められていて、うち1人はケアマネジャーの資格を持っている必要があるのだそうです。

そんな計画作成に関して、ねえちゃが入ったグループホームのかたから、何か要望等がないか電話がありました。

まずは、料理の手伝いなどの作業をすることから認知症への取り組みをはじめてくれているようです。

確かに、あれだけ忘れっぽいねえちゃが、さやいんげんの筋取りをやってきた、といったことを喜んで話すようになりました。

いまは、この調子で進めていただき、様子をしばらく見ていきたいと思っています。

ねえちゃがグループホームに入って、ちょうど2週間になりました。

認知症高齢者グループホームは1997年に制定された介護保険法によって設置が決まり、制度が始まった2000年から年々増えて、2015年には全国の事業所数が約1万3000になったそうです。

私は、仕事で、この介護保険法の制定に少しだけかかわったことがあったので、ねえちゃが入って、実際こう施設が運営されているのかと、ちょっぴり感慨深い気持ちになりました。

初めてグループホームを訪れた次の日には入居、と、ご近所のかたに力を貸していただいてのあわただしい引っ越しでした。

ねえちゃは、いつものイヤだ、イヤだという拒絶反応を起こすのではないかと心配しましたが、いまのところ無難に新生活へ入り込めたようです。寝る前や朝食後に元気な声でしばしば電話をくれます。

朝、ねえちゃに、親しくしていただいているむかしの仕事仲間のかたが連絡をくれたので掛けてみたら、と電話しました。

すると、さっそくその旨を、忘れないように日記帳に書き、携帯電話の「電話帳」から、そのかたの電話番号を探し出して掛けたようです。

家に居たときは、何度やってもすぐに忘れてできなくなっていた携帯電話の操作をこなしているのです。

格段の進歩。必要となれば、人間は思わぬ力を発揮するもの。でも、あいかわらず「何でここにいるか分からない」の繰り返しはつづいています。

いつものように「バカになっちゃったから、よくなるために、よくなるまでいるの」とつっけんどんにいうと、「それじゃ、ずっといるんだね」と、こちらが拍子抜けするくらいすんなり納得します。

グループホームは共同生活なのでいろんな制約はありますが、いつも誰かいてくれるという、一人暮らしでは得られなかった安堵感に浸っているのかもしれません。

グループホームでの生活がだいぶ落ち着いてきたので、住んでいるところが変わった旨を記した手紙を、関係者に郵送しつつあります。

すでに、手紙を読んで、私のところへわざわざ連絡を下さるかたもいて、ありがたく感じています。

でも、親戚やいつもお世話になっているごく近所の少数のかた以外で、連絡しておいたほうがいいねえちゃの友だちや知り合いのことは、私はよく分かりません。

年賀状の宛先や住宅地図などを参考に、特に親しくしていただいたかたたちには送っておこうかなと、ねえちゃに聞いてみるのですが、ご当人もまた記憶が入り乱れていて、どなたがどういう関係だったのかはっきり思い出せなくなりつつあります。

という次第で、送るかたの整合性は取れなくても、いろんな形で少しずつお知らせしていくしかなさそうです。

グループホームへ移ったとき以来、10日ぶりにねえちゃのところを訪ねました。

このあいだの土日に次男夫妻が来たことも、知人から励ましの電話が掛かってきたことも、みんな忘れてしまっていましたが、家に居たときよりずっと落ち着いて、元気そうです。

第一、家に居たときは昼間もずっとパジャマでいたのが、ちゃんと、それなりの服装をしてみんなと楽しそうに会話をしています。

「何か困ったり、思い通りにならないことはない?」と聞くと、「バカで困ること以外は、何もない」といいます。

「バカになっちゃったから、ここでリハビリしてんだから、そりゃしょうがないな」というと、落ち着いた感じで苦笑いを浮かべました。

「ここにいつまで居るの?」と聞くので、「アタマが良くなるまでだ!」と答えると、「じゃ、ずっとここにいるんだね」と、けっこう嬉しそうな表情を浮かべていました。

一週間ぶりにねえちゃの家に来ました。急にグループホームへ移ったので、家の中は乱雑なまま、ごみの山状態です。

一般ごみは、毎週水曜日の朝となっているので、傷んで食べられなくなったリンゴや食べ残しの惣菜、紙切れなどを、指定のごみ袋へ入れて明日の朝、ゴミ置き場へ出す予定で準備にかかりました。

長野は、ごみ収集の先進県。可燃ごみをはじめ、プラスチック、紙、ビン、ペットボトルなど種類ごとに出し方や収集の日時が細かく分かれています。

東京のマンションのようにいつでも、というわけにはいきません。まずは、ごみの出し方を詳しく勉強して、少しずつやっていくしかありません。

これから、ねえちゃが留守にする自宅へ届く郵便物は、どのようにしたらいいのか?。

移ったグループホームへ転送してもらう手はありそうですが、ねえちゃはいまでさえ、その手紙がどんなものか自分で判断できず、私が読んでいる状態です。

ならば、東京の私のところへ転送することができるのか?

郵便局のサイトを見ると、郵便物を受け取る人が住んでいない所に転居届を提出することは出来ず、入院中の親族に代わって転送を受けることはできない、とあります。

となると、定期的にねえちゃの郵便受けを覗きにきて処理するするしかないのか。

書留や宅急便はどう処理していけばいいのか。ちょっとしたことですが、重要な課題がまだまだいろいろあります。

ねえちゃが2年ほど通ってきた脳神経外科から、お願いしておいた診療情報提供書いわゆる紹介状が今朝とどき、さっそくねえちゃが入ったグループホームへ送りました。これで入所に伴う当面の手続きは、完了しました。

紹介状は、単なるあいさつではなく、症状、診断、治療など、これまでの診療の総括が記されて、医療の継続性をはかるために用いられています。

紹介状がないと新しい医療機関で改めて検査や診断をしなおさなければなりません。大きな病院を受診するときは、紹介状無しだと初診時に選定療養費が必要になります。

これまではずっと検査のときや薬が切れる際に、私がねえちゃをお医者さんのところへ連れて行っていましたが、これからはグループホーム関連のお医者さんにおまかせ。2人で病院へ行くこともなくなります。

朝食が終わって、部屋へ帰ってきてからなのか、ねえちゃから電話がかかって来て「ここに居てもいいんだろうか」と盛んにいいます。

べつに、帰りたくなった、というわけではなくて、グループホームにずっといられる理由が、どうも理解できずにいるようです。

推測するに、人がたくさんいるので、これまで週2回通ってきたデイサービスのセンターに居るような気になっているようです。

デイサービスだと、一定の時間に迎えに来て、その日のうちに家まで送ってくれます。

ところがここでは、来たまんまで、いつまでたっても家まで送ってくれる様子がない。それが、不思議でならないのかもしれません。

きょうの夜7時半ごろ、ねえちゃから電話があって「おばあさん、何してるんだろう。ここに居ていいんだろか?」といいます。

グループホームで食事を終えてみんなでテレビを観て、自分の部屋へ帰ってきたときふと、いまどうしてここに居て何をやっているのか、こんがらがって分からなくなったようです。

「アタマの病気が進んできたから、そこでリハビリしてるの。何か困ったこととか、欲しいものとかあるの?」と聞くと、困ったことも、不満も何もないといいます。

「ずっとここに居ていいの?」と聞くので「いやじゃなきゃ、みなさんと楽しく暮らしていればいいじゃない。それで、病気が良くなってきたら家に戻ればいい」。というと、それなりに納得した様子で「おやすみなさい」と電話を切りました。

まだまだ、いろいろと迷ったりすることはあるのでしょうが、グループホームへ入ってから、家にいたときのようにダダをこねることもなく、心が安定して、落ち着いてきているな、という印象を受けます。

きょうは、ねえちゃがグループホームへ移ったことを報告するあいさつ状を私のほうで書き、まずは親しい親戚と特に付き合いの深かった近所の人たちに送りました。

ごく近くの施設とはいえ、近年は、ほとんど離れることがなかった長年住み慣れた家を出て行くというのは、ねえちゃにとって人生の一大事です。

これからは、果物や野菜など自宅に送ってもらっても、受け取ることができません。お世話になっている人たちにはできる限り、新しい生活への門出について知ってもらい協力していただく必要があります。

ねえちゃの友だちにどんな人たちがいるのか、少しは察しがついても、全体像はつかみ切れません。でも、年賀状などを頼りにできうる限り、その“人脈”を探索していこうと思っています。

お嫁さんに「食事、どうでしたか?」と電話で聞かれると、ねえちゃは「おいしい」と満足そうに答えています。

毎日とどく宅食と冷蔵庫に貯めこんだ惣菜を一人で食べるこれまでと違い、みんなといっしょに温かいものを食べられるようになったのも、グループホームへ入ったねえちゃの収穫のようです。

3、4年前から、料理どころか味噌汁も作ることができなくなりました。インスタントの味噌汁を買っておいても、使い方さえ覚えられませんでした。

宅食も、「1分50秒、電子レンジで温めれば、おいしく食べられるから」といっても、冷たいまま食べてしまうのが常でした。

朝昼晩、新鮮で、温かいものが食べられるというのは、数年ぶり。ねえちゃにとって画期的なことです。

夜9時少し前、ねえちゃから電話がかかってきました。ちゃんと自分の携帯電話からです。

食事を終えて、もやしのひげ根を取る作業を手伝って、これから寝るのだそうです。

家にいるときとは違い、はしゃぐでもなく特に寂しげでもなく、落ち着いた声。とくに困ったことはなさそうです。

入る前に必要かなと思っていた、テレビを部屋に入れるかどうかを聞くと「いいよ!」

いっしょにグループホームで暮らすお年寄りや介護のかたたちと話してるほうが、テレビよりずっと楽しいのかもしれません。

仕事で徹夜をしたきょうの朝から、グループホームへ移ったねえちゃ関連の事務作業にかかりました。

まずは、新聞配達が終わったころを見計らって朝6時、販売店に今朝限りで配達をやめ、来月から銀行の引き落しをストップ旨の連絡。

つづいて、ここ数年、平日の毎日とどけてもらっていた宅食をきょうからストップのお願い。

そして毎週月曜午後に届けてくれる生協の配送を、止めて欲しい旨の電話。生協は、施設へ移るなどの場合は、直前でもキャンセル可とのことでした。

それから、かかりつけのお医者さんのところへ、グループホームのドクターにあてて紹介状を書いていただくにはどうしたらいいかの問い合わせ。

さらには、民生委員さんや、親類縁者への連絡等々。けっこういろいろやることがあるな、と妙な関心をしながら、午後、東京へ戻りました。

夜、グループホームの責任者のかたからいただいた電話では、ねえちゃはまずまず無難なスタートを切れた模様。ホッとしました。

ねえちゃは、きょうの午後、グループホームへ移りました。

「引っ越しだ」とかと言って大げさにやると、決まって「行かない」とダダをこねて泣き出して動かなくなるので、私だけでこっそり布団や着替えなどごくわずかなものだけを持って一気に済ませました。

これから少しずつ、テレビなど“大物”の運び入れも考えていこうと思っています。

近所の人たちの励ましのおかげもあって、ドタバタのなか、ねえちゃは機嫌よく移ることができした。

車で10分以内、歩いても30~40分程度。大した距離ではありません。それでも、ねえちゃにとっては人生の一大転機です。

静かで街中にも近く、すごくきれいな建物。介護にあたってくださる方たちもすごく親切です。あとは、ねえちゃ次第。うまくスタートを切ってくれることを祈るばかりです。

ねえちゃはきょうの午前中、携帯電話の練習を兼ねて、親戚のひとたち3人に、グループホームへ入る旨の連絡をしたようです。

午後から実際に、これから入るグループホームへ、担当者の人に連れて行ってもらいました。

長野駅から車で10分程度、ねえちゃの家からもちょっと長めの散歩と思えば歩いてもいけそうな距離です。

平屋で、定員は2ユニット18人。ねえちゃの部屋は「あさま」というユニットの一番はしっこの部屋。静かで、トイレの近くとなかなか便利そうです。

いろんな書類を持っていったん帰ってから、近くのショッピングセンターへシーツや布団カバー、バスタオル、歯みがき、スリッパなど最低限必要なものを買いにいきました。

共同生活なので、全部に名前を書かなければなりません。それもけっこう大変そうです。

3日ぶりに夜、ねえちゃの家に行くと、玄関のカギは閉められ、灯りも消され、いつものようにシャットアウトの状態でした。

もはや「玄関を開けといてくれとあれだけ言っておいたのに」と怒る気力も沸かなくなってきました。

それを予想して持ってきた小さな懐中電灯を灯してカギを開けて入ると、やはり「何でお前が居るの」という唖然とした顔で迎えられました。

私がいた3日前まで毎日20回ぐらい掛けて練習していた携帯電話も、やはり練習をサボッていたようです。

「お嫁さんの携帯に掛けてみて」といっても、掛け方が分からずイライラ。またイチから掛けかたの説明です。

ねえちゃにとって、家族以外と暮らすのは、65年前に高校へ通うために下宿生活をしたとき以来です。

グループホームへ入るのは、あの下宿生活のときのようなものと、ねえちゃはなんとなく理解しようとしているようですが、それ以上に具体化するすべがなくて不安でしょうがないようです。

いまの家に住んで30年ほど。料理も、整理整頓も出来なくなって、最近ではトイレにも支障が出てききて一人暮らしが困難になっても、やはり住み慣れた家を離れることには心理的にも、相当な抵抗があるようです。

「できるところから、もっていくものをまとめていったら」と言っても、きょうも途方にくれたまんま。前に進んではいきません。

きょうは、デイサービスの日。「なにかお弁当みたいなものをご馳走になった覚えがあるだけで、ほかのことはみんな忘れちゃった」のだそうです。

グループホームへ移れば、デイサービスに行くことはなくなります。ですから、行くのはあと何回かだけとなってきました。

デイサービスでやったこと、食べたものなど、一つだけでいいから覚えるか、メモしてくること、というのをずっと課題にしてきたねえちゃですが、ついに果たすことができずに終わりそうです。

グループホームへは、仏壇と、アルバムなど思い出の品々をもっていくつもりでいます。ほかに寝具など指定されたもの、日用品、衣服、下着などねえちゃの身の周りのものを用意しなければなりません。

「できるところから準備していかないと」とねえちゃにたびたび言いますが、おろおろするだけで前へすすんでいきません。

きょうの朝、デイサービスの会社の担当者から「グループホームが一部屋空きました」と、電話をいただきました。

なんでも、運営しているグループホームの一カ所で暮らしていた方が亡くなって、一部屋空室ができたのだとか。

7年間あれこれねえちゃの面倒を見てきた私にとっては、待ちかねていた知らせです。なんともいえない安堵感が沸いて来ました。

けれど、「グループホームが決まったって! よかったね」とねえちゃに言っても、何が何だかよくわかっていない様子。

持っていくもののリストをテーブルの上にひろげて、「ズボンとかパンツとか、とにかくできるところから持ってくもの整理していかないと」と言っても、キョトンとしています。

毎日10回くらいは携帯電話を掛ける練習をしているですが、一進一退、いまだに掛ける方法をマスターできていません。

特に、事あるごとに電話を掛けるのとは関係ない「戻る」のボタンを押してしまうこと。それから、電話を掛けるには受話器が立っているマークが付いたボタンを押さなければならないのですが、掛ける番号が出て来て「決定」ボタンを押しただけで繋がる気になってしまっています。

携帯電話を買ったときに付いてきた、基本的な操作方法が書かれた薄い説明書の「電話を掛ける」説明の2頁ほどのところに付箋をつけ、分からなくなったらここを見るように言ってあるのですが、そもそも説明書を見ること自体が出来なくなっていまっているのです。

アタマが動かないので、カラダで覚えこまなければならないのですが、その習得を頑固に押しとどめているようなものがあるように思われます。

あれから、7年が過ぎました。あらためて、東日本大震災で亡くなられたかたがたのご冥福を祈ります。

東日本大震災が起こった日、ねえちゃの連れあいは意識がなくなり、震災から3日後の14日未明に亡くなりました。

その死は震災とは関係ありませんが、なにか運命的なものを感じならが、毎年「3・11」を迎えます。

連れあいと死別し、ひとり暮らしをしてきた震災後の7年間は、ねえちゃにとって認知症と生きる日々となりました。

そしていまや、震災のことも、夫の死のことも、ほとんどねえちゃの頭に浮かんでくることは無くなってしまいました。

この7年、死後の事務処理にはじまり、病院通いや介護など、アルツハイマー病が進む中でねえちゃがどうやって暮らしていけばいいのか、私にとってもあっという間に過ぎた、模索の日々でありました。

きょうは、デイサービスの日。いつものようにやったことはみんな忘れていましたが、3月の手作りカレンダーを持って帰ってきました。

3月

折り紙を貼りつけてお雛さまが描かれ、デイサービスに通う日に赤い丸印が付いています。なかなかの出来栄えです。

センターから帰ってくると自治会の総会の担当のかたが見えました。委任の手続きがどうの、と言われてもねえちゃには、とても対処できなくなってきています。

夕食の前には、携帯電話をかける練習。自宅の固定電話や親戚のところなど、10本ほど電話をしてみましたが、自力で掛けるのにはまだ不安が残っています。

地区の総会開催のお知らせの紙の裏側に、「振込み先 ミヅホ 銀行……カイヤクは 途中カイ約で発せいした」などと、ねえちゃがこのあいだ、電話で受けたと見られるメモが赤鉛筆で書かれていました。

裏にこんなメモを書いた書類を町内会に出すわけにはいきません。「これ電話を受けてこれ書いたの?」とねえちゃに聞いても、何が何だか分からず、そんなの書いてないといい張ります。

でも、他に書いた人がいたとは考えられませんし、筆跡もねえちゃのに似ています。そこで、同じ文を読み上げて、ねえちゃに書いてもらうと、メモとそっくり。

残念ながら、内容はもちろん、書いたかどうかだけでなく自分の「字」かどうかということに対する認識も、できなくなっているのです。

きょうは、お医者さんの日です。小雨がパラつくなか、行きつけの脳神経外科まで、いつものように歩いて出かけました。

きのうの解約金がどうのこうの件もあってか、ねえちゃは「こんなんじゃ、死んだほうがいい。医者へは行かない」とダダをこねて動こうとしませんでした。

しかし、もう薬がなくなってきたし、このために私はわざわざ東京から来たので、「薬をどんどん飲めば副作用で早く逝ける」からと強引にひっぱり出しました。

お医者さんに着けば、さっきあれほどダダをこねたのもすっかり忘れています。

きょうの診察は、血圧が低めの傾向にあるので高血圧の薬の量を半分にすること。

それから最近まんじゅうを食べすぎなのが災いしてか、血液検査で血糖値が高めだったため、紹介状を書くので眼科を受診して見るようにとの話がありました。

光アクセス回線サービスに係る悪質な勧誘で総務省から行政指導を受けたある会社から、3万円余りの解約金を払えとか何とか、オレオレに類するのではないかと疑われるような電話に、ねえちゃは何が何だかわからずご丁寧に応じて、それをまたすべて忘れているという事態が発生しました。

悪質なヤカラには、警察や国民生活センターに訴えて徹底的に戦うのが私のモットーですが、ねえちゃにそんなことを言ってもどうにもなりません。ただ言えることは、最近は、ねえちゃが身内以外の電話に出ると、トラブルが巻き起こる以外は何も起こらないという事実です。

そこで、思い切って今夜から固定電話には一切出ないことにしました。固定電話の子機を捨て去り、親機から受話器をブン取って、これまでにかかってきたわけのわからない番号はすべて受信拒否にして、留守番電話と着信履歴が残るだけにしました。

関係者のみなさんにはご迷惑をかけますが、ねえちゃへの連絡は、携帯電話のほうにお願いいたします。また、固定の留守番電話に録音しておいていただければ対処させていただきたいと思います。

ご不便をおかけしますが、認知症高齢者が暮らすにはこうでもしないとままならない世の中だと身に染みている昨今です。どうかよろしくお願い申し上げます。

居間のテーブルのうえに「朝になったら着替えること」と「おやつをここから動かさない」とう赤いマジックで書いた紙をくっつけておきました。

まずは、いまの最重要課題である、一日中パジャマで居る生活から脱却しないことには、デイサービスに行く気にもなりません。

おかずは冷蔵庫に入っているので、そこから出して食べていますが、饅頭やさきいか、ほしい芋、みかんなどのおやつは、テーブルに出しておいてもすぐにどこかへ片づけて行方不明になってしまいます。

そこで、少々乱雑になってもテーブルのうえにいつも置いておいて、食後の愉しみにしてもらいたいと思ってのことです。

いまのねえちゃんとって、片づけるということは即、行方不明になることを意味しているのです。

きょうは、ねえちゃにとってはイベントだらけの一日でした。

甥が訪ねてくれて、からだが不自由な「姉さま」の近況や、郷里の最近の様子を教えてくれました。

タンクの「赤い線」から下になってしまった灯油を、補給してもらいました。

生協から、今週分の惣菜や魚など食料品を届けてもらいました。

どれも、ねえちゃがいまなんとか暮らしていられる“生命線”なのですが、夕方聞いてみると、いつものようにこれらの大半が頭から抜け落ちてしまっています。

特に、いつも気にしている「姉さま」の近況について、甥からいろいろ聞いたはずなのに、頭の中に何も残っていないと悔しがります。

ねえちゃは、ふだんは一日中、パジャマのままで、着替えをせずにいます。パジャマのまま、ぶらっと出掛けて、ご近所の人が注意してくれても、またすぐにパジャマ生活にもどってしまいます。

デイサービスの朝になると、毎度のように行くのを嫌がるのも、ひょっとしたら着替えるのが嫌だからなのかな、と思われてきます。

きょうも、朝、昼、夕と、着替えるように怒っても、あしたお客さんが来るので着替えていっしょにお茶菓子を買いに行こうとさそっても、頑ななばかりに、その気になってくれません。

着替える気力は、やる気、生きる気力につながるところがあります。

「そんなに着替えるのが嫌なら、リラックスできる普段着のまま寝たら。それなら、デイサービスへ行くのも苦にならないんじゃない?」と言うと、いちおう頷いてはいます。

きょうはデイサービスの日です。が、いつものように家へ帰ってくるとすぐに、やったことも行ったこと自体も忘れてしまいます。

リハビリだと思って、センターで出た食事の一品でもいいから、リュックにあるメモ帳に書くなどして覚えてくることを課題にしているのですが、2年近く通っていても一度もできません。

日記を書いても、いつも「きょうもバカで困る」と言った内容場ばかりです。「きょうはずっとデイサービスに行ってたんだから、それを書かなければ日記にならないでしょ!」というと、「デイサービスへ行ったようだが、よくわからない」と書き込んでいました。

カラダが動かなければ少しでも動かそうとするのがリハビリとなりますが、アタマを動かすリハビリはどうしたらいいのか、なかなか見えて来ません。

携帯電話を掛ける練習できょうの昼過ぎ、ねえちゃは甥のところに電話しました。

掛け方をすっかり忘れているので、またイチからのやり直しです。私がいるときは、一日に何度も練習させるのですが、2回や3回やってもぜんぜんマスターするには至らなくなってきました。

記憶することがほとんどできなくなっているので、とにかく毎日、自分の固定電話に掛けるなどして慣れるしかありません。リハビリだと思って続けていくしかありません。

甥から「デイサービスは何曜日に行ってるの?」と聞かれたようですが、自分が何曜日に通っているかもかの認識もいまのねえちゃからは消えています。

同じデイサービスに通っている近所のおじいさんが、蕗の薹(フキノトウ)を持ってきてくれました。まだ土がくっついている取りたてです。

早春、フキの花茎が伸び出す蕗の薹。そういえばきょうから3月。もう春なんだな、とあらためて気づかしてもらえましたもらえました。

おじいさんは、山菜や果物などしばしば持ってきてくれるのですが、ねえちゃは、まだ名前も住んでいるところも知らないし、聞くのも忘れています。

「もらったはいいけれど、どうやって食べるの?」と聞くと、「ゆでて味噌で和えて」といます。頭には料理の仕方が何となくあるのでしょうが、近ごろは、それを実行することはほとんど不可能になってきました。

本人は出来ると思ていても、実際に料理をする手順にまで至らないのです。ですから、せっかくのいただき物も、ほったらかしにしていて、たいていは傷んで食べられなくなってしまいます。

きょうはデイサービスの日。テーブルの上には、赤いマジックで「頑張って、行けガンバれ!」と書いてあります。

一人暮らしで、話す人が居ないのが最大の悩みのねえちゃにとって、デイサービスはみんなと話せる絶好の機会なのですが、いざ出かけるとなると毎回なにか心のハードルを越える必要があるようです。

そのハードルを、本人はたいてい「頭がふらふらして、行けない」というふうに表現します。電話とかで毎回、そのハードルを何とか越えられるように周りでプッシュしてやらなければなりません。

生真面目で、何ごとにも「ちゃんとしなきゃ」と思っているねえちゃの、何事にも消極的な性格にも関係しているのかもしれません。

いざ、デイサービスへ行ってしまえば、やったことはみんな頭から消え去っても、ハイテンションで、楽しかったと言ってもどって来るのですが。

体温計の電池が無くなっちゃったと、ねえちゃが騒いでいたので、1週間余りぶりに長野へ来た今夜、近くのドラックストアで電池を買って入れ替えをしました。

「CR2016」。円盤形の小さな電池です。

道具箱から小さめの十字ドライバーを取り出してきて、体温計の極小のネジを回して電池を入れ替えていると、ネジが居間の床の上にコロコロ落ちてしまいました。

老眼鏡がないととても見えない私がオロオロしていると、そばで眺めていたねえちゃが「これじゃない」と目敏く発見しました。

80歳過ぎても裸眼でこんな小さなネジがすぐに見つけ出せる。認知症とはいっても、アタマ以外は現役バリバリです。

7年前に連れ合いが亡くなってから、私と親戚の法事に出かけたくらいで、ねえちゃは旅行らしきものをほとんどしていません。

四国八十八か所巡りをしたい、と言っていた時期もあるのですが、ガイドブックやツアーの案内をたくさん取り寄せてあげても、けっきょく尻込みして実行しませんでした。

もともとあまり外へ出かけるのが好きではなく、病気が進行するにつれてますます出不精になってきたように思われます。

最近、安曇野市のNPO法人が、認知症患者らの家族旅行を介助する事業を始めるというニュースが流れていました。が、ねえちゃの場合なかなか、家族旅行へのハードルは高そうです。

金メダル4つを含め、史上最多の13個のメダルを獲得した平昌オリンピックが閉幕しました。

閉幕直前にあったスピードスケートの女子マススタートでは、長野県の下諏訪町にある日本電産サンキョー所属の高木菜那選手が金メダル。高木選手を知る諏訪地方の人たちは、驚きと喜びに沸いたそうです。

さすがに長野オリンピックの開催地。高木さんやスピードスケート女子500メートル金メダルの小平奈緒(相沢病院)はじめ、県関係の選手たちの活躍がとりわけ目立ったオリンピックでもありました。

ねえちゃは、「北朝鮮だか韓国だかでやっていて、日本の選手がメダルを取った」ことは頭のどこかにあるものの、詳しいことはなんだか分からず、関心をもてずに過ぎて行ったオリンピックだったようです。

きょうは、デイサービスの日です。朝、お嫁さんが電話で起こしましたが「頭がふらふらして」とまた行きたがりません。

おまけに「熱があるかどうか体温計で測ろうと思ったら、電池が切れてしまって測れない」と、困っているようです。

「熱はセンターで測ってもらえるでしょ。看護師さんもいるし、クリニックも併設されているのだから、具合が悪ければなおさら行かなきゃだめ」と説得をして、やっと着替えさせました。

帰ってくる午後4時半ごろ電話をしてみると、朝、駄々をこねたことなど、センターでやったこととともにすっかり忘れて、「ちょうどいま帰って来た。楽しかった」と元気そうでした。

最近、ねえちゃはずいぶん、寂しがり屋で、涙もろくなってきたなと思います。電話をしていても、涙声になることがしばしばあります。

家の窓から外を眺めていては、いつも「誰も通らない」「物音ひとつしない」「電気もつかない」と寂しがります。

ハタから見ていると特に困ったことがあるようではなく、お隣から犬の鳴き声も聞こえるし、近所にどこか変化があったようにも思えないのですが。

「オリンピックはきょう女子フィギュアスケートがあるから、テレビをつけて観たら」と電話でいうと「じゃ、そうする」と涙声で答えていました。

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